僕ら人間は、自分で自分の人生をコントロールしていると思い込んで生きている。

だから「ライフハック」というような概念も生まれてくるし、他者を思い通りにコントロールしようとする誤った形のマネジメント概念なんかも広く語られています。

でも僕らがハックしていると思い込んでいることの大半は、ただ単にハックさせられているだけに過ぎなかったりする。

この点、ノーベル経済学賞受賞を受賞したリチャード・セイラー教授の「ナッジ(そっと後押しする)」という概念がありますが、世の中には既にこの「ナッジ」が至るところに張り巡らされています。

私の「自由意思」によって選んでいるようで、他者に完全に選ばされているだけだというような。

しかもそれは、ときには自分が仕掛ける側でもあり、仕掛けられている側でもある。この世界に生きている以上、この構造からは一生逃れることはできません。

ーーー

そもそも僕らは、このように他者から与えられた「チャンス」と「環境」によって自分の行動が決定されているだけに過ぎないのかもしれません。

だとしたら、「私が自分の努力で成し遂げたんだ」と思い込むこと自体が、いかにバカバカしいことなのかもよく理解してもらえるかと思います。

この点、先日ラジオの中で発酵デザイナー・小倉ヒラクさんがとても印象的な言葉を語っていました。以下のツイートに引用してあるので、ここでご紹介してみます。

職人さんの手によってすべてがお膳立てされたチャンスと環境の中で、もし微生物が「俺が優秀だから、この発酵食品をつくることができた!」と思っていたら、上から覗いている職人さんは「微生物ってバカだなあ」と思うはずです。

それとまったく同じことが、人間社会でも起こっている。

たまたますべてのチャンスが整っていて、その環境づくりをしてくれたひとたちがいたからこそ自分が成し遂げられただけなのです。

ーーー

じゃあ、そんな「チャンス」と「環境づくり」をした職人さんのような人間が一番偉いのかと言えば、そのひとだって「作用(発酵)」自体を自らの力で起こすことは絶対に不可能です。

つまりここから導き出される結論は、僕らは誰か(広義の他者)の「チャンス」と「環境づくり」を活用させてもらって、誰か(広義の他者)の「チャンス」と「環境づくり」をお手伝いをすることしかできないんです、本質的に。

これらは完全に入れ子構造になっている。

結局のところ、持ちつ持たれつの関係性であって、誰かが神の視点から何かを超越的にすべてを意図的にコントロールできるわけではありません。

ーーー

ここまでたどり着くと多くの場合、一度は厭世主義に(ペシミズム)に陥ってしまいます。

「どうせすべての事柄は幻想に過ぎなくて、自由意思なんて存在しないのなら、最初から私が生きている意味なんかない」のだと。

でも一方で、全身全霊で誰かの何かに作用していくこと、自己も他者も同時に変容させていくことこそが、本当の「生」を全うする意味だとも考えることはできないでしょうか。

もちろんそこには「作用しない自由」だって含まれる。自らが作用しないことによって起こる作用だってあるのだから。

つまり、「自己と他者がお互いの関わり合う中で変容していくこと」それ自体に楽しみを見出していくのです。

どれだけ輝かしい「結果」や「努力」でさえも幻想にすぎなくて、「万物は常に変化し続ける」ことだけが変わらない普遍の原理なのだから。

ーーー

「結果ではなく、プロセスを大切にしよう」という話も、変化そのものが生きることの本質なのだから、その変化のほうを全力で楽しもうという意味でもあるのだと思います。

どうしても人間は、「悪い方向へと変化しないこと」もしくは「変化さえも自らコントロールして、目的や目標に達成することに対して強い愉悦感を感じてしまう生き物」だけれども、やっぱりそれは幻想でしかない。

だとすれば、小さな石をせっせと積み上げていくピラミッドの建設のように人生を捉えてしまうのではなく、アメーバのように常に変容し続けるものであり、拡大も完成もせず、一生うねうねとし続けている状態が「生」の本質であり、その「変容」に対して自らの生を強く実感していきたい。

ーーー

最後にまとめると、生を全うすることの本質は、私を含めた環境全体の絶え間ない「変容」による「循環」なのだと思います。

各人にとって最大の変化であると言える「死」さえも、いつか必ずやってくることことをある種心待ちにしながら、この生を最後まで生き抜くこと。

そんなことを、昨夜Wasei Salon内で開催された佐々木俊尚さん著『時間とテクノロジー』の読書会で気づくことができました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。