ユニクロやZARAのSPA(製造から販売までを一貫して担いコストを下げること)の成功をみて、それを徹底的にハックしたのが、中国のSHEINだという話は、よく語られる話です。

 SPA的な「迅速な市場対応」を極限まで高速化し、AIによるトレンド予測、超小ロット生産によるテストマーケティング、SNSを駆使したデジタルマーケティングを組み合わせが、SHEINの成功の秘訣だったのだ、と。

そして、そのようなウルトラ・ファストファッションのカルチャーに対して、中指を立てているムーブメントが現代においては「古着」であるというのが、一般的な認識であり解釈だと思います。

だから、アンチ・資本主義的な文脈の中で「古着」特集が取り上げられることも多い。

実際、そういう文脈に興味を持つような若い子たちが、いま古着を好んで着ていて、再び古着に光が当たり始めている印象です。

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でも、実際問題、というか経済的な構造から見たときには、そのSHEINのSPAハックを、さらにハックしたのが、今の古着ブームだと僕は思うんですよね。

ここで重要な指標は「情報(トレンド)」と「商品の回転数」だと捉えたときに、「だったらもう作る必要なんてなくね…?すでにたくさん死んだ在庫が、メルカリにいくらでも転がっているんだし」となったのが、2020年代の古着屋さんたちが見出した、逆転の発想だった気がします。


むしろ、SNS上につくり出した無限の小さなトレンドに合致するものだけを、タダ同然の価格でフリマアプリからピンポイントで仕入れられること、そのような自転車操業的な動きが個人レベルでも可能となったのが、インターネット革命であり、今のこの古着ブームを下支えしている。

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そして、そのトレンドに寄せた古着を、タダみたいな値段で仕入れておいて、トレンドに流される若い子たちに対して、ソレを高値で売りさばけばいい。

そうすればもはや、原価をかけて自分たちで「商材」をつくる必要さえもない、と気付いてしまった。

つまり個人レベルでも「トレンド創出→仕入れ→販売のサイクル」を高速で回せるようになった。

このサイクルは誰が気づいたというわけでもなく、自然発生的にそのようなビジネス構造が、ネット上でまわり始めたということなのだと思います。

最初はただの消費者だったような人間が、メルカリを用いてローンウルフみたいな形で「ウルトラマイクロSPA」みたいなことをやりはじめた。

そのなかで魅せ方が上手い人間が、法人成りをして、お店を持ち始めた。

しかも一見すると、大量生産・大量消費に中指を立てるような見せ方において、時代のブランディング的にも非常にうまくハマった。

そして、そのような個人のノウハウ自体が、現場における口コミや有料noteなどで、またたく間に広く共有されるようになったということだと思います。

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このあたりは、現代の金融のすべての局面においてつくられている構造にも、非常によく似ている。

「情報」が瞬く間に拡散し、そこで「記号」を売買・取引できる世の中においては、そういう流動性相場を作り出すことが、一番儲けられる。

ドンドンと、次々にバブルをつくりだす。

「可能性」としての情報をバラマキ、注目させては、さんざん散らかして次へ行く。決して深くコミットはしない。

それが金融、とくに暗号資産や株式市場の世界で生まれて、商材としてトレンドを内包しているありとあらゆる商品に、まったく同じことが起きている。まさに、エブリシング・バブル状態です。

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でもそう考えてくると、一周まわって、ちゃんと製造コストかけて自分たちの商品をつくっているユニクロやZARAのようなファストファッション群の企業のほうが、逆になんだか誠実に見えてくる不思議です。

製造責任、雇用責任、サプライチェーンへの責任といった「汗をかく部分」をちゃんと担っているわけですからね。

ましてや、ユニクロなんて自社回収もしているわけですから。

でも古着屋は、その頭と尻尾の責任は一切とらない。最も利益率の高い「情報のコントロール」と「ブランディング」に特化している。

オールドGAPや、オールドユニクロみたいな概念も、古着屋が古いものをリサイクルしているのだといえば聞こえが良いわけですが、逆に言えば、その製品の製造責任みたいなものは、マルっと丸投げしているわけです。

グローバル企業の企業努力に、完全におんぶにだっこの状態とも見て取れなくもない。

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つまり、ここまで語ってきたように、現代的な古着屋のビジネスって「反資本主義の顔をした、資本主義の最終形態」でもあるんだろうなあと思うのです。

ただし、本人たちにもきっと、そのつもりや自覚はまったくない。

きっと今も変わらず、ゼロ年代のころの古着屋のイメージをそのまま持っていて、売る人も買う人も、その牧歌的なイメージのまま。

でも、実際に現場で起きていること、その構造は、ものすごく現代資本主義の局地であり、極北。

「サステナブル」「一点物」「人とは違う個性を」「大量生産へのアンチテーゼ」といった、耳障りの良い言葉でマーケティングされて、消費者はファストファッションを消費することへの罪悪感から解放され、「賢い選択」「地球に優しい選択」をしているという自己肯定感を得ることができてしまう。

でも、気づけばみんなが、資本主義の手のひらのうえで踊っているというなんとも皮肉な話です。

もちろん、その背後にあるメルカリのようなプラットフォーム、そんな手数料ビジネスがボロ儲け。

「私たちは、洋服という実態のあるものを売買している、私たちはあの金融村の実態のない記号を右から左に流している人たちとは違うんだ!」と思いながらも、みんなで必死に「記号」をやり取りして、その差益を、胴元から順番に分配している構造になってしまっている。

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さて、このような逆転構造って、本当にどこでも存在すると思っていて。

あなた達が中指を立てたひとたち以上に、ソレにおいて局地を行ってますよ、ということって本当によくある。

アウトレットが流行ったから、最初からアウトレット用の商材をつくってしまうとかもそう。

人気になる前のものを買い占めておけば(デッドストックをしておけば)あとから価値が出るから、早いうちから買い占めようとかもそう。

それらはすべて、本来は結果論だったはずなのです。死んだ動産の有効活用が最初のアイディアであり、もっとブリコラージュ的な発想だったはず。

でも、人々が群がり、そこに想像していた以上の価値が生まれ、成功事例がわかりやすく存在するから、その成功事例を分解し、解剖して、リバースエンジニアリング的に、ハックしようとする人たちが現れてしまう。

それを実際に仕掛けたくなるのが、人間の性であり原罪ということなんでしょうね。

このような文脈で考えると、キリスト教が高利貸しを禁止した理由も、よくわかる。

あとは「花咲かじいさん」みたいなむかし話において、善良で良い爺さんを真似しようとして、ことごとく失敗する悪い爺さんなんかも、この教訓を見事に伝えてくれている。

現代は何が悲しいって、そういう悪い爺さんこそが、ことごとく金銭的、ビジネス的に成功してしまうことです。

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あと、このような文脈を考えるときに、いつも思うのは、いつだって消費者の中にある「罪悪感」が狙われているだけなんだよなあということ。

たとえば、2010年代に流行した「エシカル消費」が一旦落ち着き、「推し活」全盛期がまさに今だと思います。

大量生産・大量消費が行き詰まり、逆に消費者の倫理観が高まった2010年代。

それがエシカル消費という標語、そんな「グリーンウォッシュ」によって、なんとか別の文脈で新しいものを買わせようとした。

でも、今度は、あまりに罪悪感を強める方向にフリすぎてしまったせいで、消費が停滞してしまった。特にコロナ禍の巣ごもりが、それに拍車をかけたわけです。

でもそのときに、唯一「推し活」だけが、その罪悪感を見事に払拭することができた。

だからこそ、今はどの業界も推し活一辺倒なんだと思います。

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具体的には「他者を純粋な気持ちで応援する消費であれば、エシカル的な観点がなくても許される」と思い込む価値観。

グッズの大量購入や、それらの使い捨て、環境負荷などの問題もその時だけは見事にスルーされる。

むしろ「推しのために…!」という大義名分があることによって、普通の消費よりも、躊躇なくお金を使えてしまう。

これも、誰が始めたというよりも、結果的にそうなったということだと思います。

「推し活はただの消費とは違って、尊い行為なのだから、多少の悪事は目をつむっても許されるのだ!」という視点が生まれて、それが見事にエンタメ業界やビジネスサイド側にハックされてしまった。

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特にここ数年の、コロナ明け以降のライブやフェス、イベントごとのグッズも含めたゴミ問題、一回使ったらもう捨てても構わないという解釈は、なんだか本当におかしいと僕は思います。

「それこそを、以前は批判していたんじゃないのか!」と思うのですが「尊い推しを推している、それを布教するためなのだから許される」という発想。

神の名のもとなら、粛清も許される、まさに十字軍的な発想です。

でも、それは神の名のもとにというよりも、そもそも「買い物」や「消費」こそがしたかった、他者を自らに従えさせたかった、なんならただただ人殺しこそしたかった、そんな欲望そのものなんじゃないかと思う。

そしていつの時代も、為政者たちは大衆のそんな欲望に気が付き、うまいことそれを焚き付けてしまう。

結局は、いつの時代も「罪悪感」と、そこから抜け出させてくれる「都合の良い言い訳」、その「免罪符」の間で、人間は弄ばれているだけのように思う。

そのいちばんの目的は、本能的な欲望のままに振る舞うために、です。

ルターの宗教改革のときから何も変わらない人類の歴史の悲哀がここにある。

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じゃあ、どうすればいいのか。

僕がここで語るよりも、坂の途中の小野さんが、Podcast番組「なんでやってんねやろ?」の中で語られていた「嘘も方便」的なアプローチは素晴らしいなあと思うので、そちらをぜひ聴いてみて欲しいです。


あの番組の中で小野さんが語られていた「一回興味を持ってもらったあとに、サービスの品質に向けられるまなざし、その『ものさし』辞退を少しずつ変えていくことは許される。」というお話は、目からウロコでした。

本当に素晴らしいパラダイムシフトへのアプローチだなと思います。

ご興味がある方は、ぜひ合わせて聴いてみてください。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。