いま享受しているものが、そのまま並行して存在しながらも、嫌なものだけが存在しないはずの、また別の人生(選択)がありえたと考える(妄想してしまう)人間の愚かさ、ってあるよなあと思う。

「もしも若いころ、あの日あの時あの場所で、別の選択肢を選んでいれば」と考えてしまう。

けれど、もし本当にその瞬間まで戻ることができたとして、選び取らなかった別の選択肢を選ぶことができたとしても、当然のように、今この瞬間に享受しているポジティブな事柄も同時にすべてが雲散霧消してしまう。

毎日のように感じている些細な幸せ、どころか、幸せだと感じていないぐらい日常に溶け込んでしまっている幸福でさえも、なくなる可能性は非常に高い。

もし、すでにお子さんがいるひとは、十中八九その子も、目の前からいなくなるわけですよね。

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そして、何よりも、その別の選択肢をいまこの瞬間に喉から手が出るほどに望んでいる、今の自分さえもいなくなる。

だからこそ、以前何かの本に書かれてあった「(良かれ悪しかれ)これまでにわたしが得たもの、いま得ているもの、これから得るものすべてに感謝します」という祈りの言葉は、本当に大事な教えだなあと思う。

これは、決して歯が浮くような理想論ということではなくて、時間というものに対して、一番誠実に向き合った結果として、選び取られるスタンスであり、非常に真摯な態度だと思うのです。

この話題を、昨夜Wasei Salonの中のタイムラインの中で投稿してみたところ、共感してくれたり、刺さるひとが多くて驚きました。

何気なく書いたつもりだったのに、こんなに反応があるとは思ってもみなかった。

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で、この教訓をとてもわかりやすく描いてくれている作品が、最近NHKで放送されていた藤子・F・不二雄のSF短編ドラマ。その名も「分岐点」というタイトルです。


SFは、こういう教訓をカンタンにわかりやすく描けてしまうのが、本当に素晴らしいなといつも思います。

何か偉い人からのお説教めいた形で語られてしまうよりも、一人の架空の主人公が時間を行き来するようなタイムトラベルという物語形式で見せられたら、一瞬で腹落ちして納得することができますからね。

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じゃあ、そのような子どもでもわかりやすいSF作品を教訓にしながら、過去の選択への違和感やその後悔を完全に捨て去って、今の生活に対して100%満足すれば良いのか。

僕は、そうじゃないとも同時に思います。

このあたりは非常に面倒くさくて、本当にごめんなさいという気持ちです。

もちろん、世の中には、実際にそのような「過去への後悔」を完全に捨て去っているようなひとたちもたくさんいる。

そして、そういうひとほど、屈託のないキラキラとした笑顔で毎日を過ごしていて、何不自由ないように生きいているようにも見える。

そして、そのようなひとたちに対して「なぜ、そんなに幸せそうに毎日を過ごすことができるんですか?」と問うてみれば、その人の中にも本当は葛藤はあったのだけれども、上述したような「祈りの言葉」を大切にしているのよね、的な話を教えてくれるわけです。

そして、過去を後悔し毎日悶々として生きてきた若者がハッとするというところまでが、お決まりのパターンだと思います。

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そのような物語のテンプレートが、マンガやアニメ、そして映画やドラマのような形で、いたるところに流布されているのが現代です。

だから「ありのままを受け入れよう!そこでボジティブ解釈全開で上機嫌に生きていこう!」という、ある種のわかりやすいスピリチュアル的な解釈なんかも生まれてくるのだと思います。

でも、繰り返しますが、僕はそれだけではないと思っています。

では、本当に、大事なことは一体何なのか。

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この点、最近読んだ、小説家フランツ・カフカの解説などでも有名な文学紹介者・頭木弘樹さんのエッセイ集『口の立つやつが勝つってことでいいのか』という書籍を読んでいて、すごく腑に落ちたお話があります。

頭木さんは、ご自身が沖縄に移住されたあと、現地で出会われた方々にまつわるエッセイの中で、以下のようなお話を書かれていました。

少し本書から引用してみたいと思います。

内地の人で、沖縄についていちばんよくわかっているのは、現地の人たちと深いつきあいをして、その土地にディープに入り込んでいる人たちだと思っていた。
ところが、実際にはそうでもなかった。
沖縄に旅行に来て、数日間、サトウキビ畑で汗水流して働いてみて、「本当の自分を見つけた」というような人たちの、沖縄に対する認識が浅いのは当然だが、ディープに入り込んでいる人たちにも、学校でうまくいっている生徒の学校ルポと同じようなところがあった。
では、どういう人の認識が深かったかというと、沖縄で暮らしながらも、完全にはなじ
めず、ずっと違和感を抱いている人たちだ。


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これは、僕もローカルで数々の現地に暮らす人々の取材をしてきて、本当に強く感じるところです。

頭木さんご自身は、「これはもちろん、私の個人的な感想なので、私の勘違いかもしれない」と書かれていましたが、様々な地域を取材して渡り歩いてきた自分にとっても、納得感のある話。

ものすごく的を得ている発言だなと思いましたし、自分が現地の人たちに感じていた印象というのは、コレだったんだ!と発見させてもらって、本当に心から腑に落ちました。

ただし、ここで書かれているような「現地で暮らしながらも、完全にはなじめず、ずっと違和感を抱いている人たち」ほど、地域やコミュニティの中では多少煙たがられていたりもする。

「あの人は、多少変わっているところもあるからね」と言われがち。

そして実際に少し浮いている。現地になかなか馴染めていない姿は、短期間の取材のために現地を訪れた自分でも、すぐに見て取れるほどです。

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また、その方が、どれだけおもしろい暮らしや営みを実践されていても、雑誌やテレビなど、最初から見せたい姿や描きたい編集方針があるような場合においては、理想的な移住者としては取り上げられない場合が多い。

でもそんなひとこそ、いちばん「その地域」や「そのコミュニティ」について、ド真剣に問い続けている。

だからインタビューをさせてもらう言葉の中にも、キラッと光るものが必ず見つかります。

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で、先ほどのエッセイに続いて、頭木弘樹さんは、以下のようにも書かれていました。

「その水にしっくりなじめる魚は、その水のことを考えなくなる。その水になじめない魚だけが、その水について考えつづけるのだ。」


この結論に対しても、僕は非常に共感します。

水をある程度は受け入れつつも、なじめないなと感じるその水を疑い続けること。そんなアンビバレントな態度。

居心地が悪いことに対して、違和感を一方でちゃんと持ち続けながら、その居心地の良さも同時に実感していくという姿勢。

で、そういうひとにお会いしたときほど「この土地で暮らしてくれていてありがとう。あなたのおかげで、新たな視点を得ることができました」と僕は静かに感謝します。

そういう暮らしや生活をしている方々こそ言祝ぐことをしたいなと思うんでうよね。

文字通り、余人を持って代えがたい存在だなあと強く感じるからです。

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この点、大抵のひとは「都会」の水に馴染めかないから、田舎に異なる水を求めて移住しがちです。

そして、一度下してしまった決断だからという理由で、現地の水を100%肯定をする場合が多い。

そういうひとは、ローカルに行くと本当にゴロゴロと存在している。

もう、あとにも戻れないから当然のことだと思いますし、その選択を否定するつもりもありません。

それはそれで素晴らしい視座の持ち方ですし、人間の生存戦略というか「人生において自らが下した決断、それこそを正解にしていこう!」という姿勢は、非常に正しい戦略だと思います。

少なくとも、他者に迷惑をかけてまでも、自分に都合が良い形に「水」自体を革命的に変えてしまおうとするひとよりは、よっぽど「いいひと」だと思います。

また僕だって自分の人生の中に、そういう視点を持ち合わせているジャンルは山ほどある。だから冒頭で書いたようなお話も、わざわざ持ち出してきているわけですからね。

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でも、どうすればより良くなるのか、そうやって再解釈していこうとする姿勢も常に持ち続けたい。

水を疑い続けるその態度こそが、新たな視点を生み出すことも事実だと思うのです。

そして、その時に初めて、「再出発」という価値観なんかも、生まれてくると思うのです。それは、ブレない力でもなく、リセットする力でもなく、です。


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さて今日は、世間一般的に信じられているような一般論から、二転三転して、非常に厄介な面倒な話を書いてしまいました。

でも、今の自分や環境を根本的に受け入れつつも、その中で感じる違和感を無視せず、常に問い続ける姿勢(=再出発)が、今の僕が本当に深く信じている視点です。

そして、Wasei Salonというコミュニティにおいても、この考え方は大事にしていきたい。

なぜなら、完全に均質化され、誰もが何の疑いも持たないコミュニティは、一見すると外からは幸せそうに見えるかもしれませんが、時代の変化には対応できず、内側から停滞していく危険性を孕んでいると思うからです。

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そこに「少し変わっている」とされながらも、違和感を表明し続ける「なじめない魚」がいてくれるからこそ、そのコミュニティは自らを省みることができて、新しい価値観を取り入れながら、成長していくことができると思います。

実際、そのような視点を持ってくれているメンバーさんの、顔も何人か思い浮かびます。本当に余人を持って代えがたい、非常にありがたい存在だなあと思っています。

きっとお名前を挙げるまでもなく、それぞれに「自分のことだろうなあ」という自覚があるかと思うので「いつも貴重な視点を、本当にどうもありがとうございます」という気持ちをここでお伝えしておきます。

このブログを読んでくださったみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。