最近、アメリカで作られた香港の民主化革命に関するドキュメンタリー番組を、NHKオンデマンドで観ました。
タイトルはBS世界のドキュメンタリー「香港を諦めない 雨傘運動から10年」。
雨傘運動を主導した当時高校生だった子たちが、その10年のあいだどのような軌跡を辿ったのか、1時間のドキュメンタリー番組にまとめたような内容です。
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メインで取り上げられているのは、10年前にはまだ高校生だった3名。
そのうち日本だと、日本語が話せる周庭(アグネス・チョウ)さんが有名だと思います。
彼らの活動は、最初の頃は平和的で一瞬は本当にうまくいきかけたけれど、みなさんも御存知の通り、いまではそんな民主化運動も、完全に政府側に鎮静させられてしまったわけです。
そして、3人のうち、ひとりは捕まって未だに刑務所の中。
そして残りのふたりは国外に逃亡していて、懸賞金なんかもかけられたりして、今は全員が最初の目的とはまったく異なる形で不遇な人生を送っているという、なんとも希望のない内容でした。
で、この番組を見ながら僕が思いだしたのは、村上春樹さんの「個人と組織が喧嘩をしたら、まず間違いなく組織のほうが勝つ」という話です。
今年は世界的な「政治の年」なので、どうしても政治と個人の関係性を考えてしまいます。
今日はこの村上春樹さんの話をご紹介しつつ、いま僕らに必要なスタンスとは一体何かを丁寧に考えてみたいなと思います。
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では早速、少しだけ『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』という本から引用してみたいと思います。
”僕は学校を出て以来どこの組織にも属すことなく一人でこつこつと生きて来たわけだけれど、その二十年ちょっとのあいだに身をもって学んだ事実がひとつだけある。それは「個人と組織が喧嘩をしたら、まず間違いなく組織のほうが勝つ」ということだ。これはあまり心温まる結論とはいえないけれど、しょうがない、間違いのない事実です。個人が組織に勝てるほど世の中は甘くない。たしかに一時的には個人が組織に対して勝利を収めたように見えることもある。しかし長いスパンをとって見てみれば、必ず最後には組織が勝利を収めている。”
これは、本当に夢や希望もない、身も蓋もない話だと思われるかもしれない。でも、36年間生きてきた僕の結論としても、まったく同様の結論に至るなあと思います。
誰にも負けたくなく、かつ合理的に生きたければ、必ず組織側についたほうがいい。
これはもう圧倒的な真実です。
これまでもこれからも、少なくとも僕らが生きている限りは、覆りようのない真実。
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でも、じゃあ完全に諦めているのかと言えば、そうでもありません。村上春樹さんも本書の中で以下のように続けています。
”ときどきふと「一人で生きていくというのは、どうせ負けるための過程にすぎないのではないか」と思うこともある。でも、それでもやはり僕らは「いやはや疲れるなあ」と思いながらも、孤軍奮闘していかなくてはならない。何故なら、個人が個人として生きていくこと、そしてその存在基盤を世界に指し示すこと、それが小説を書くことの意味だと僕は思っているからだ。”
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この点、少し話はそれてしまいますが、世の中はますます「個人」がエンパワメントされる方向に時代は進んでいるというよく語られる話、僕はあれって、明らかに間違っているなと思っています。
それこそ、最近であればトークンを使って、大企業に匹敵する規模の経済圏をつくる未来がやってくるというような話なんかもそう。
そういう視点は、事実ではある反面、結構なミスリードだとも思っています。
言い換えると、過去15年間ぐらい「個人の時代」とか「個人メディアの時代」とか叫ばれて、それが実現したということに世の中的にはなっているみたいだけれども、そうじゃなく今ここにきて、改めて「昭和的なもの」に回帰している現実を、ちゃんと見つめたほうが良いなと。
僕が多くのひとと、はっきりと認識が異なっているのは、SNS普及以降でも、個人は組織に完全に負けたのが、この10年だということです。
もちろん、それは世界共通の話であって、日本の場合、香港やミャンマーのように武力弾圧など極端なことは起きていないけれど「SNSの普及で個人の時代がやってくる、そして実際にそうなっただろう」というのは「ただし、組織が許す範囲に限る」という但し書きがあることであり、根本的には失敗に終わったんだと思っています。
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特に、個人の影響力なんて、5年前に比べたら本当にだだ下がりだと思います。
いくら有名YouTuberがボコボコと誕生していて「個人メディア」が影響力を持ってきたといっても、そのひとたちも完全に「テレビ的なもの」に見事に懐柔されている。
ビジネス系のYouTubeチャンネルだって、急速に「テレビ的なもの」に原点回帰している印象を強く受けます。
そして、そのひとたちの個人の力が急速に衰えると同時に、政治にドンドン近づいていること、近づかないと事実上やっていけないことも、最近では見事にあらわになっている。
影響力の持った(ことになっている)個人と、政治や組織の蜜月関係。
特に、前回の都知事選、そして今回の自民党総裁選も、テレビ的なもの、そして政治の力みたいなもののパワーの復権を、とても強く感じたというのは、きっと僕だけではないと思っています。
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じゃあそれは、一体なぜなのか。
プラットフォームのアルゴリズムの力によって個人の影響力がドンドン削がれていることもそうだけれども、結局のところ、せっかくそれぞれに力を持ち始めた個人が、お互いに私利私欲によってバラバラになってしまったから、だと思うんですよね。
それぞれが、お互いに好き勝手な方向を向いた結果、完全に弱体化している。
これは、大手メディアや国家の側からしたら、本当にしてやったりだと思う。そこにビックテックの思惑だって見事に働いているわけですよね。
生かさず殺さず、ただ黙って発信や生産をしてくれて、身の丈に合わない、でも破産もしない程度の消費を無限に続けてくれる、そんなふうに自己家畜化に向かってくれる人々が、組織にとっては一番都合がいい。
マトリックスの一作目の中に裏切り者として、自ら進んでマトリックスの世界にとどまろうとするキャラがいましたが、まさにあのような状態です。
適当に自分メディアを持っているつもりになって、適当に経済的に豊かになってくれて、その手綱を裏から握れている状態が組織にとっては一番都合がいい。
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そもそもなぜひとは、そんな風にして甘い夢を見たくなってしまうのか。
それは、やっぱりその先にこそ、何か輝かしい未来が待っている信じてしまうからですよね。
まさに先日書いた話なんかともつながって、喜びや享楽をそこに見出したくなる。でも、その希望自体が、ひとつの幻想なわけです。
それよりも、個人が退屈や寂寞といかに向き合うかということなんだと思います。
人々が喜びや享楽だけを追い求めてくれれば、組織や政治の思うツボ。
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何度だって繰り返しますが、だから個人は、組織に負けてしまうわけです。
それは、これから一体、どんな新たな仕組みやツールが出てきてもそうなのだと思います。人間自体が変わらなければ、起きることは、いつの時代もだいたい一緒。
最初の5年ぐらいは「下剋上だ!」とか「時代が変わる!」的な話がなされていても、人間の欲望のおかげで(せいで?)、10年もすればまた組織側が体制を整えて、うまく懐柔できてしまうようになる。
だから、負けたくない人たち、常に自分が優位な側にいたいと思ったら、ただ黙って組織のほうについたほうがいい。
国家公務員や大企業の社員など、組織側はこれまでもこれからも絶対に負けませんから。
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でもやっぱり、冒頭でご紹介したような香港のドキュメンタリーなんかを観てしまうと、そうやって香港やミャンマーで民主化を目指して、今も戦っている「個人」がいるということを僕は考えてしまいます。
せめて自分も、そんな組織がもたらしてくれる甘い喜びや享楽に釣られることなく、退屈と寂寞と正しく付き合い、個人において問い続けようと思う。
なぜなら、変わるべきは「人間側」なんだろうなって本当に強く思うからです。
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また、今日のこの話は、あの批判も多い村上春樹さんの「壁と卵」のスピーチにもつながると思います。
「壁と卵の比喩は前時代的であって、もう古い考え方だ。今の世の中はそんなふうに『大きな壁のような組織VS割れやすい卵としての個人』のように割り切れるものではない。今の世の中はもっと複雑でしょう、構造のほうを理解しよう!」というありがちな批判やメタ視点、本当にそのとおりだと思います。
ただ、それはそのとおりなんだけれども、入り組んでいるがゆえに、世の中の流れ自体が人間単位においてはドンドン単純化してきている、というのもまた事実だと思うんですよね。
お互いがお互いの見たい世界しかみていない。それは右派も左派も、どちらも全く一緒だということが完全にバレてしまった。
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そのうえでの生き方そのものや、哲学の提示それ自体がいま本当に大事だなと思うし、人々が、徒党を組まずにそれぞれがそれぞれに問い続けるために、深いところでつながる場をつくりだすというのは、とても大事なことだなあと思う。
そういう意味でも、個人が個人として生きていくこと、そしてその存在基盤を世界に指し示すこと自体がこれからはより一層大切になってくると思っています。
個人と組織が喧嘩をしたら、まず間違いなく組織のほうが勝つとしても、です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。