引き続き、「真善美」における美的感覚、その「調和」について考えています。
先日配信したVoicyのプレミアム配信の中で、中学校の教師をしているおのじさんに、学校内でのテクノロジーの浸透度合いを聞かせてもらいながら、僕は「文化も変われば、その時代に求められるものも変わる」という話をしました。
あの話も、この美的感覚や調和の視点につながるなあと思います。
従来的な美的感覚、SFの中で描かれていた世界観は過去への執着とも言える、今日はこの点について改めて問い直してみたいなあと思います。
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というのも、ChatGPTの新しい発表に関しても、なんだか大きな違和感を感じるようになってきたからです。
楽しみといえば毎回楽しみにしてはいるだけれど、よく比較して語られるようなジョブズがいた当時のAppleの新製品発表会のようなワクワクがあるかと言えば、なんだかちょっと違う気もしています。
新しい機能が開発されていくたびに「いろんなものが壊されていくなあ…」という実感のほうが強くて、しかもそれで何か自己の創造性が高まるかと言えば、それはどちらかと言えば”作らされている”という感覚のほうに近くて、消費させられている感覚のほうが強い。
この時代に生きている以上、AIは絶対に使わなきゃいけないから「使う?or 使わない?」という選択肢は最初から持ち合わせてはいないのだけれど、それゆえになんだか季節柄、余計に「大本営発表」みたいな気持ちで観てしまうなあと。
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でも、彼らが「すでに描かれている未来像」、そんな世界においてコンセンサスが取れているものをつくろうとすることも、一方で当然のことで。
昔、誰かが思い描いた未来、その投影された未来像に、多大なる影響を受けてその未来を純粋に追求するのが科学者やその知識を結集してtoCサービスをつくる企業の役割なわけだから。
そうじゃないと、人々の熱狂も起こせないし、投資だって集まらないわけですから。
でも、本当につくるべき未来というのは、もしかしたらそうじゃないのかもしれない。
それは当時において考え出された「未来のあるべき姿」であり、今の現状をありのままに見つめて、実際問題の実装段階で起きてきた、未来の姿では決してないわけですよね。
重なる可能性はありつつ、重ならない可能性だって、十分にある。
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このように考えてくると、人間というのはいつだって次の世代に、自分たちの理想とするあるべき未来像を押し付けているだけのようにも思えてきます。
現代も、今の子どもたちに対しても、自分たちが過去に思い描いた理想的な未来像を勝手に押し付けているだけで。
社会問題となっている不登校問題も、そこに欺瞞的なもの感じる子どもたちの意思表示、不作為の投票行動だと思ったら、なんだか腑に落ちるものもあるなあと思います。
過去の時代において理想的とされていた未来像を、子どもたちは良くも悪くも知らない。
だからこそ、子どもたちのほうがそのあたりは、ものすごくシビアに今の時代にあった教育や教養とは何かを深く観察しているように思います。
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で、それこそがその時代ごとの「美」の基準にも直結するなと思うのです。
そして、大事なことは、その時代ごとの「美」や「調和」の概念を探ること。
逆に言えば、時代によって大きく移り変わるということを、しっかりと自覚することなのではないかと思うのです。
ここで、また福田恆存の話を思い出す。
福田恆存は『人間の生き方、ものの考え方』という本の中で、文化とは何かについて、非常にわかりやすく語ってくれていました。
今日の話と見事にリンクするので、少し引用してみたいと思います。
文化とは一つの時代、一つの民族の生き方の様式であると言えると思います。すなわち常識的な意味で文化というものを定義すれば、それは私たちの生活が無意識のうちに目ざし、また無意識のうちに、それによって支えられている一つの秩序、あるいは様式をいうものであります。例えば、鎌倉時代の刀というものは古代の服装には似合わないし、麻上下をつけて古代の剣をさしたら格好がつかないでしょう。やはりその当時の武器と着物とは一貫した美意識、あるいは文化感覚によって統一されているわけです。
そしてこの話を受けて、この様式美や感覚的なものを十分に身につけた場合、それを「教養」と称すると書かれています。
ところが、日本では、町や村のような文化共同体で身につけたカルチャーが、学校教育によって崩される傾向があり、学校へ行くほど教養がなくなるという奇妙な現象になっている、と。
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この福田の視点で、現代を見直すと子どもたちの不登校は、ただのサボタージュではなく、一種の“不作為の投票行動”にも見えてくる。
画一的で、過去に作られた「理想の未来像」を押し付けられることへの、無意識の抵抗。
彼らは時代を正しく見定めたうえで「それは、いま必要じゃない」と声にならない声で伝えてくれているようにも思います。
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だとしたら、僕らの世代は、今の時代にあった様式美を、また時代に合わせてゼロからつくっていかなければいけないと思うのです。
良くも悪くも、これまでには存在しなかった全く新しいテクノロジーが存在してしまっている世界における新しい美的感覚、その調和を構築していく必要がある。
それが文化をつくるということであり、教養ということでもあると思うのです。
言い換えると、美的感覚にはイデアや真理があるように思えるけれど、でも決してそうじゃない。真善美における、真と善は仮にそうだったとしても、美だけはそうじゃない。
一番容易に移り変わるものだし、時代ごとに美的感覚が存在する。
そもそも、江戸時代の浮世絵の中で描かれる美的感覚、中世ヨーロッパの中で描かれる美的感覚、そんなまったく異なる歴史的文脈をもつ国同士が、現代においてひとつに統合されようとしていることのほうが、おかしくて。
でも同時に、どこかで、それは「美」であったのだろう、という深い共鳴をもたらす不思議もあるわけです。
それは僕らが浮世絵のような世界観や、中世ヨーロッパのような世界に対して、実践はしないけれど憧れて共鳴できるように、です。
だとすれば、その本質のほうに目を向けたい。決してうわべだけではなく、です。
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あと、このあたりの漠然とした違和感というか感覚というのは自分自身が若い頃、ファッションが好きで良かったなと思う理由でもあります。
あれはまさに、時代ごとの美的感覚、そのあらわれでもあったように思うから。
特に、若い子たちのムーブメントの中から立ち上がってくるストリートファッションというのは、まさにソレだと感じます。
そして、間違いなくソレは、大人たちが向かおうとする、過去に形作られた未来に対しての違和感が出発点にあると思う。
そういうときほど、若い子たちのほうが「古い」ものに対して、純粋に楽しみや喜び、新しさを見出してくる。保守と呼ばれる恐れも全くないから、です。
若い子たちのそんな言葉にならない言葉、その直感力に対して、僕はいつも尊敬できてしまいます。
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あと、らふる中村さんとの対談のときにもお話したけれど、この年齢になってくると、ゼロ年代ファッションのように一度自分の中で完全に終わったものが、再来してくる感覚なんかも同時に味わえる。
すでに「昔」や「古さ」になったものを、再度「未来」や「新しさ」と解釈する若い感性。
自己の美的感覚とのズレなども、同時にそこに発見することができたりもするわけです。
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ファッションに喩えたついでに、もう少しファッションの話を続けると、ハイブランドが提案するコレクションや、今だったらユニクロのような大企業が提案するスタイルというのは、それはそれで高尚なものであり、歴史的な文脈を踏まられていて、なおかつ経済的にも成功するものが描かれる。
でも同時に、若者やストリートから提案されるものは、そういうものを一切無視した「今ここ」の必然性が起点にある。
これはきっと「つくる、うむ、なる」の感覚なんかにも近くて。
「なる」としてのストリートファッションの美学。
「つくる、うむ」の西洋的な作為性に対して、「なる」というのは、もっと良くも悪くも「環境」に依存する。
「なるようにして、なった」と言うけれど、それっていうのは、それがそこに「なる」だけの必然的な要因が、その場にあったからで。
つまり、「なった」ものが、一番その時代や環境の必然がそこに内在していると言い換えることもできるかと思います。
でも、それは間違いなく世界に対して影響を与えるし、相互補完関係でもある。
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今日の話を踏まえて、いま本当にぼくらが目指していきたい未来とは何なのか。
左右の対立を超えて、上に、つまり「過去に思い描いたあるべき未来の姿」へと辿り着こうとするけれど、でも今本当に大切なことは、きっと深く潜ることだと思います。
この点、以前もご紹介した『「人生学」ことはじめ』という本の中で、河合隼雄さんは、正しさについて以下のように書かれていました。
実際の現場ではよく経験することですが、正しいか正しくないかと言っても仕方ないんですね。正しいことを言っても役に立たない。僕が僕自身に、今よりも一時間早く起きてドイツ語の勉強をすればよろしいと言ったとします。これは絶対正しいですけど、絶対やれない(笑)。あるいは、親子でもめてる人に「お母さん、もう少し子供に優しくしてください」と言っても、それは正しいですけど、優しくできないから困っているんでね。だから、正しいことというのは大体あまり役に立たないですよ。本当に役に立つことを言うのはすごく難しいですね。
そんなときこそ、深さを追求したほうがいいと語るのです。
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現代は「広さ」や「上」を目指す方は、もうAIが自分の変わりに代替してくれるようになったのだからこそ「深さ」を重視したい。
にも関わらず、広さが大事、上に行くことが大事という話をいつまでもしていると、つまり従来的な「センス」や「納得感」に拘泥していると、きっと見事に足元すくわれてしまうと思います。
結果的に、未来的な行為を行っているようで、それは何かとてつもなく古い価値観で駆動している可能性が高い。
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大事なことは、今みたいな激動する世の中で、私たちはどう生きるべきなのかを追求すること。
それが、僕らに問われている。
吉野源三郎でもなく、宮崎駿でもなく、それは僕らの課題。映画じゃなく、本でもなく、君たちの問いであり、君たちの課題だというメッセージであり、本来的な優しさなのだと思います。
だとしたら、それを受け取って、時代における美的感覚、その調和を問い続けることが本当に大事なことだなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。