「何が論理的に正しいことはわかっているけれど、それをやりたくない」
「世間的な正しいことだけに、回収されたくない」
そんな気持ちが、いま世間のなかでものすごく沸き立っているなあと感じます。
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これは、2010年代のリベラリズムのポリコレ棒にはじまり、2020年代前半コロナ禍の学び直しのムーブメントなんかの影響や、その揺り戻しだと思います。
さらにそれに輪をかけて、正論をいくらでも言い続けてくれることが可能となった生成AIの登場もかなり大きいかと思います。
AIは、本当に正論しか言わない。正論を一旦横に置いておいて、人間の感情に寄り添うような場合であったとしても、「正しい」寄り添い方しかしてくれないわけですよね。
だからこそ、それを利用して、淡々とゆるストイック生きましょうという提案もあるのだけれど、そう言われれば言われるほど、反発したくなるのが人情でもあるはずで、その気持ちも一方でよくわかるなあと思ってしまいます。
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この点、先日Wasei Salonの中で開催されていた読書会のイベントのアーカイブを観ていたら、
「『相手は変えられない。だから自分を変えるしかない』というよく耳にする論調は、マッチョ思考で嫌いだ」という話が語られていて、それがめちゃくちゃおもしろい話だなと思いました。
僕も、共感する部分は多々あって、未だにモヤモヤと考え続けています。
これも、原理や論理を突き詰めることによって到達する自明の結論と、「そうは言っても感情的には受け入れがたい」というズレの話でもあるように思うし、確かにその気持ち自体もよくわかるなあと思う。
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この「理屈と感情のズレ」は、人生が「タスク化」されることへの嫌悪感が根底にあるように感じています。
ひとにやらせたいことほど「やるなやるな」と禁止にし、やらせたくないことほど「もっとやれ、もっとやれ!」とミッションを明確にして、そのミッションが達成するまでは決してやめさせないようにする。
そうすると、人は意外と苦手なことでもやりたくなるし、逆にどれだけ好きなことでもやめたくなるみたいな話って、よく耳にするかと思いますが、何でも仕事になった瞬間につまらなくなる、というのは、つまりはそういうことなんだろうなあと。
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人類共通の三大欲求だって、もしそれが仕事や義務になってしまったら、絶対につまらなくなるわけですからね。
今の日本の未婚・少子化問題も、お上が義務化のように改善しようと試み続けるから、人々が反発したくなる感情も間違いなくあるはずで。
じゃあ、なぜそれがわかっていても霞が関や地方行政側は、引き続き未婚少子化対策を打ち続けるのか。
そこには、全く逆の願望があるからなのかと、勘ぐってしまいたくなるほどです。
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さて、話がそれてしまったので、もとに戻すと、現代はSNS上に正しいノウハウが爆発的に溢れ、倫理的に正しくないものはすぐに徹底的に断罪されるような世の中です。
そこへ一人ひとりに個別最適化された「正論」を提案してくれる生成AIまでが登場した。
もう完全に、人間がやるべきことはすべて「タスク化」された。
「善く生きる」ための「思想的な正しさ」は、もういくらでも無限に浴びることができてしまう。
そして逆に、論理的・倫理的に正しくないものは、容赦なく他者から断罪することもできてしまう世の中です。
しかもAIが用意してくれた論証やエビデンスに基づいて、です。
ただ、多くのひとの気持ちとしては、「でも、その正論ができないから困っているんだよ!」または「そこに、感情的に納得できないんだよ!」がまさに現代の大衆の気分なのだと思います。
つまり、世の人々はもう「正解」なんて探していない。「論理的な正しさ」なんて希求していない。
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「別に大成功したいわけじゃない、正しい努力なんかもしたくない。貧しくなるのはわかったから、誇りをくれ!納得感が欲しいんだ!」と叫び始めている。
そして、その欲望というか、願望がポピュリズムに完全に狙われてしまっているわけですよね。
この点、先日、中田敦彦さんの参政党解説のYouTube動画を観ましたが、とてもわかりやすかったし、現状認識としてもとても近いものがあるなあと思いました。
あの中で語られていたように、今は「思想先行型」よりも「感情訴求型」が刺さる時代なわけですよね。
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で、この流れは強まることがあっても、しばらく弱まることはないのだと思います。
だから大事なことは、鎌倉仏教的なスタンスだというのは、先日書いた通りです。
具体的には、いかにその「感情」に対して寄り添いながらも、本質に対して「嘘も方便」的に導くのか。
で、このときに、本当に目指すべき方向性、その本質というのは、きっと「調和」なのだと思います。
このあたりが今日の一番の本題にもつながっていきます。
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以前もご紹介した河合隼雄さんの書籍『「人生学」ことはじめ』という本の中に、「大事なことは、首尾一貫ではなく調和である」という話が書かれてありました。
これを読んだときに、僕はものすごく強く膝を打った。
少し本書から引用してみます。
首尾一貫なんてものは、現実にはありえないでしょ。ひとりの人間が首尾一 貫して生きたら、どれだけ周囲のみん なが苦労するか(笑)。
首尾一 貫してないからムチャクチャだと言うのは、単純すぎますね。首尾一貫しない中に、どれだけの調和を持っている か。つまり、それがどんな曼陀羅を描いているかということです。
これは、本当にそのとおりだなあと思うのです。
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で、思想先行型やリベラリズムの基本概念は、まさに首尾一貫を目指す態度なわけですよね。
そんな「首尾一貫」は、時に人を疲れさせ、煙たがられもするわけです。
かといって、それを安易に批判し、感情に流されるだけでは、ポピュリズムの思うツボ。
いま本当に大事なことは、そんな矛盾を抱えた自分や他者、そして社会全体が織りなす「調和」の方だということなんでしょうね。
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で、これはきっと、もっと本質的に言えば「真善美」にももつながる話だと思っていて。
「調和」というのは、僕が好きな中村天風がよく用いる言葉でもあって。
彼は「真・善・美」を、「誠・愛・調和」と言い換えられるとも主張しているという話は、以前もご紹介した通りです。
そして、「調和のないところに、本当の美はない」と語るわけです。
この主張は、僕は紛れもない真実だと思います。
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そう考えてくると、現代における真も、善も、ある程度の「正解」が示された。それは本当に素晴らしいことです。
しかし、唯一残された「美」の領域、つまり「かっこいい」や「美しい」といった個人の直感的・感情的な美意識に訴えかける部分だけが、未だに曖昧で未発達。
それを発見したのがトランプ大統領だったのかもしれないと思うのです。
つまり、そこに感情的、感覚的、身体的、直感的に納得ができないところに漬け込んだ。
私は納得がいかない、虐げられてしまっていると感じている、そんな人々の「美的センス」に対して、直接訴えかけたということだと思います。
世界中で起きている右傾化、そのポピュリズムは、人々の安易な独立したこの「美的感覚」を狙っていると言い換えることもできそうです。
これっていうのは、実はものすごく危ういことだなと思います。
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そして、いま同時に哲学や人文系の界隈でも「美」を追求する人たちが、増えてきている印象があります。
決してそれも偶然ではなくて、意識・無意識はあると思いつつ、間違いなく時代のこのトレンドを感じ取ったうえでの研究や探求なのだと思うんですよね。
つまり「真善美」における、美の部分こそがいま最大の論点になっていて、個々人の身勝手な美学ではなくて、この調和の部分が今、ハッキリと問いただされているということなんだと思う。
言い方を変えると、正しい”正論”は出揃った、あとはそれをどのような美的感覚として世の中に提示していくのか。そこが論点になっている気がするんですよね。
「美」を調和と捉えて、そこにどんなハーモニーを創り出すか。
また、それはシンフォニーではなくて、ドストエフスキー的なポリフォニーなのかもしれない。
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本当の意味での「嘘も方便」を経由した、真の意味での共同体としての美的感覚の追求。
その調和を僕は探求していきたいなあと思います。
正論でもなく、個々の独立した欲望に近い感情に対して過度に寄り添いすぎるわけでもなく、真の意味での調和をはかる。
きっとこれはルソーの語る「一般意志」の概念なんかにも通じると思っていて、一般意志は「調和における美的感覚」を指すのだと思う。
決して、個別意志の集合による単なる「全体意志」ではなく、です。
全体意志は、確かに個々人の「美的感覚」は探求されているのかもしれないけれど、それだとそれぞれのガチャガチャとした不協和音になってしまう。
「美」の再提示、調和的「美」の提案を大事にしていきたい。
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そしてそれがまさに、河合隼雄さんの語るように「どのような曼荼羅を描いているのか」なんだよなあと思うのです。
「美=調和=一般意志=曼荼羅」
果たして本当にそんな調和なんてものがあり得るのか、あり得るとすればそれは一体どのようなものなのか。
コミュニティ運営を行う身としても引き続き探求していきたい問いだなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。