昨夜、Wasei Salonの体験会イベントとして「13歳からのアート思考 」の読書会が開催されました。

今日は、この読書会を通じて、みなさんと対話する中で自分が考えたことを少しだけこのブログにも書いてみたいと思います。

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アートに対峙したとき、焦りや不安、恐れのような感覚は誰もが一度は体験したことがあるかと思います。

アートはなんだか高尚なもののような気がしてしまい「どうやって見ればいいの…?何をつくればいいの…?」と、その正解がわからなくなってしまう。だからとても不安になるし、ドンドン縁遠いものになっていく。

採点基準が曖昧なものに挑戦できないというのは、現代病のひとつだと思います。

「美の基準は、ひとそれぞれだよ」と言われてみても、アート作品と対峙したときに、自分の中で直感的に「良い悪い(快・不快)」を感じるわけだから、きっと何か明確な答えがあるはずだと考えてしまう。

だからこそ僕らは、そんな傾向や対策といったような何か「真理」めいたものを求めて、有識者の意見やその答えが書いてありそうな書籍に向かってしまうのでしょう。

「ここにきっと、自分が求めている答えや正解が書いてあるはずだ!」と願って。

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でも、『13歳からのアート思考』に書かれていることは、僕らのそんな期待をすべて裏切って「そんなものは、ない」ということが1冊を通して書かれています。

「ないものは、ない」ということをひたすら丁寧に説明してくれている非常に稀有な本だと思います。(もちろんここで言う「ないものは、ない」は「あるものは、全部ある」という意味でもある)

常にそうやって「美」の基準が覆されていくものがアートなんだよ、と。

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だからこそ、現代において「アート思考が重要である」という著者の主張も、非常によく理解できます。

なぜなら、21世紀という時代は、社会全体がそんな状態に陥ってしまっているからです。

「なにか一つの真理がある」と思って、これまでの社会は常に前進してきました。それは「人間自らが神になろうとしてきた歩み」と言い換えれてみても良いのかもしれません。

しかし、そんな人間が神になるための真理を追求すればするほど、そんな真理なんてないという事実だけが突きつけられる。

数学も科学も、政治も経済も哲学も、ただそこに観測者がいるだけ、という状態になってしまったのです。

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このときの、絶望といったらありません。

荒野にひとり投げ出されたような気持ちになる。ものすごく寂しくて、強い孤独感に苛まれる。

だからこそ、そんな空虚感や虚無感を埋めてくれるような偽りの「原理主義」を貫いた、カルトや陰謀論がまかり通るようにもなってしまうのでしょう。

「21世紀にもなって、カルトかよ!」ってニュースを見ていて思うかもしれないけれど、21世紀だからこそ「原理主義」を貫いてくれるカルトがまかり通る時代になってしまったということなのだと思います。

しかし、それが社会全体にとって悪影響があることはもう完全に周知の事実です。

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じゃあ、僕らはどうすればいいのか、一体なにを拠りどころにして生きればいいのか。

完全に手前みそですが、答えのない問いを他者と対話し続けて、ひとりひとりが自分の頭で考えるしかないのだと思います。

そして、その対話の先に辿り着いた答えらしきものが「自分の人生の答え」なのではなく、その対話の過程こそが人生であり、その本質なのだと僕は思います。

「山頂にいつか必ずたどり着ける…!」とか「山頂に辿り着いた!」と浮かれていても、後世の人間からそんなものは山頂ではなかったと覆されるのが人生です。

だからこそ、ぼくらは頂上が絶対に存在しない山を、それでも登り続けるしかない。

しかし、登山自体が楽しければ、頂上に辿り着けるかどうかなんてまったく関係なくなってきます。

どんな仲間と共に、どんな景色を共有しながら、山を登りたいと思うのかが、いま本当に問われているのだと思います。

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本書は、そんなことをアートの文脈を通じて教えてくれる本です。

ぜひ気になる方は、紙の本で読んでみたり、オーディオブックで聴いてみたりして欲しいです。

そして、Wasei Salon内には、他のメンバーのみなさんがこの本をどうやって読んだのか、そんな読書会のアーカイブも公開されているので、ご興味がある方はぜひ視聴してみてください。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。