昨日、こんなポストをしてみたら、思いのほか大きな反響がありました。


リクルート出身のマーケターの方が書かれていた「脳内にドパガキのペルソナを飼っておくといい」というポストへの引用リポストになります。

マーケターであれば脳内に「ドパガキ」を飼うと良いとその方は語られていたけれど、でもそうやって、みんなが脳内にドパガキ飼って、自分たちがつくるものを「短く、派手に、わかりやすく」していくほど、今度はそれを受け取る側の人間、とくに柔軟な子どもたちほど、そのペルソナのほうに寄っていってしまう。

そして最後には、大人たちが「最近の若い子はドパガキ化して、長いものはもう読めない」と嘆く。

いやいや、それは僕らみんなで、かなり丁寧に育ててきた結果でしょう、と僕なんかはいつも思ってしまうわけです。

今日は、この話をもう一歩だけ深めてみたいなと思います。

つまり、こうやってみんなで丁寧に育てられてしまった僕ら自身は、一体どうやってそこから抜け出せばいいのか、というお話です。

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で、こういう話になると、よく持ち出されるのが「もっと本を読もう」「読書は思考のジムだ」という言葉です。

短く派手なものばかり摂取していると思考の筋肉が衰えるから、負荷をかけて鍛えましょう、と。

気持ちはとてもよくわかるのですが、僕はこの比喩がずっとしっくりきていません。

なぜなら、あまりにもそれはマッチョすぎるからです。

「教養のために、将来の自分のために」そうやって歯を食いしばって、額に汗して、重たいバーベルのような古典を持ち上げる。つらさに耐えた分だけ強くなれんだ…!というビジネス成長思考そのもの。

確かにそれも大事だなとは思いつつ、そんなふうに読書を語れば語るほど、本はますます「しんどいもの」になっていく。

イソップ童話の「北風と太陽」でいえば、完全に北風のやり方です。

「読まないとバカになるぞ!ドパガキになっちゃうぞ!」と吹き付ければ吹き付けるほど、人は読書から遠ざかっていく。

ドパガキは、説教では治らないのだと思います。

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じゃあ、読書とは本当は何に近いのか。

僕は、ジムではなくて「旅」に近いものだと思っています。

たとえば、旅行に行ってまで、普段とまったく同じ場所ばかりを巡るひとは、あまりいません。

もちろん旅先でもコンビニには行くし、チェーンのお店にも入ります。でも、せっかく京都まで行って、コンビニとイオンモールとチェーンの居酒屋だけを巡って帰ってくるひとは、そう多くないはず。

せっかく京都に来たんだからと、普段なら絶対に行かないようなお寺に行き、庭を眺め、旧跡を歩き、知らない土地の料理を食べてみる。

でも冷静に考えてみると、これってかなり不思議なことだと思いませんか。

お寺や旧跡なんて、まさに「長くて、地味で、わかりにくい」ものの典型です。ドパガキ的なペルソナから見れば、この世で一番遠くにあるもののはずです。

それなのに「旅」という枠組みの中に入った途端、誰に強制されるでもなく、自然とそちらのほうへ足が向いてしまう。

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なぜそんなことが起きるのかと言えば、決して「自分は寺が大好きだから」ではないはずですよね。

そうじゃなくて、何百年も残り続けていて、これだけ多くのひとが訪れてきたのであれば、きっと何かがあるのだろう。そうやって、その土地や先人の旅人たちのことを少しだけ信頼してみる。

自分の現在の好みよりも、その信頼のほうに一度、身体を預けてみるわけです。

そして、ここがいちばん大事なところなのですが、僕らはそういう場所に「行かされる」のではなく、自然と「行きたくなる」んですよね。たとえそれがインスタ映えのためであったとしても、です。

つまり、枠組みが変われば、欲望の向きそのものが変わるということ。

そして僕は、古典を読むことも、これとかなり似ていると思っています。

行き慣れていて好きなジャンルや、いま話題になっている本もいい。でもそれと同じくらい、古典や、自分の界隈とはまったく関係のないジャンルの本が大事になる。

むしろ、そっちに半ば強制的に連れて行かれること、そして気づけば自分から訪れたくなっていること。

それこそが、旅の醍醐味そのものだと思うのです。

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だからこそ、僕は最近、よく思うのですが、

読みたい本を、最初に読んではいけない。

読みたい本は、いちばん最後に読め。どうせ、読みたくなくなるから
、と。

一見すると、ずいぶん変なことを言っているように聞こえると思います。でも、ここまでお読みいただいたみなさんには、その意味合いのようなものが、少しずつ伝わり始めているはずです。

YouTubeもTikTokもXも、僕らの過去の行動を眺めながら「これがあなたの好きなものでしょう?」と、次の好みそうなコンテンツを無限に差し出してきます。

それはとっても便利です。でも、それを繰り返していると、現在の自分の好みが、現在の自分の好みを再生産し続けることになる。

気づけば、自分の周囲には「すでに好きなもの」ばかりが並ぶようになってしまいます。

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そして読書も、まったく同じだと思うのです。

いま自分が「読みたい」と思っている本は、多かれ少なかれ、脳内のドパガキめいた自分が選んだ本です。短く、派手に、わかりやすく、いまの自分にとって得がありそうな本。

今の自分が好きで、興味があって、理解できる範囲の中だけで本を選び続ければ、当然「今の自分」だけがますます強化されていきます。

冒頭の話で言えば、「ドパガキ」に合わせ続けることで、本当に「ドパガキ」が育っていってしまうのと同じ構造です。

でも、だとしたら、その逆だってできるはずですよね。

つまり、自分の「読みたい」のほうを、育て直すことだってできるはずなんです。

そして、読みたくない本のほうへ迂回する旅を続けていると、あるとき、選書の主体そのものが入れ替わってしまう瞬間がやってきます。

読みたい「私」自身が変わるわけです。まさに「改心」ではなく「回心」の状態。

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これはたとえるなら、運動と同じです。

最初は「健康のために仕方なく」始めた運動が、続けているうちに、運動そのものが楽しくなって、毎日の歯磨きのように、今度はやらずにはいられなくなってくる。

ジャンクフードよりも、健康的な食材のほうが、美味しいと心から思えるようになってくるのも同じです。

我慢の先に報酬があるのではなくて、それ自体が気持ちいいというゾーンに入ってしまうこと。

読書において本当に大事なのは、このゾーンのほうだと思うのです。

ただし、繰り返しになりますが、これは「じゃあ、興味のない本を我慢して読め」という話ではありません。むしろそれは、僕がいちばん嫌いな読書のあり方です。

それではまた、北風のやり方に戻ってしまいますから。

目指したい姿は、我慢できる自分をつくることではなく、いつのまにか「読みたい」の向きそのものが変わってしまっていることのほうです。

だから、読書はジムではなく、「旅」なんです。

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そう考えると、「読みたいものを読む」の反対は、「読みたくないものを我慢して読む」ではないことがわかってくるはずです。

そうではなくて、まだ知らない自分の「読みたい」に、積極的に出会いに行くということ。

旅をすると、自分が知らなかった自分の好みに出会うことがありますよね。「自分って、こういう景色が好きだったんだ」とか「こんな歴史に興味があったんだ」とか、帰ってきてから旅先前の自分と、今の自分が少し変わってしまっている気づく。

読書でも、まったく同じことが起きます。それまで興味のなかったジャンルを読んだことで、次に読みたい本が生まれる。一冊の古典を読んだことで、何十冊も新しく読みたい本が増えていく。

つまり、読書によって増えているのは決して知識だけじゃない。「読みたい」そのものが増えている。僕は、ここが読書のいちばんおもしろいところだと思っています。

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そして、この循環をぐるっとひと回りしたあとに、かつて「読みたい」と思っていた本のところへ戻ってくると、不思議なことに、もうあまり読みたくなくなっていたりする。

それは自分の欲望が枯れてしまったからではなくて、欲望のほうが成熟して、本を選ぶ目が過去の自分ではなく、新しい自分のものになってしまったからなんです。

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ただ、とはいえ、です。

話はここで終わっても良いのですが、ひとりで旅に出るのは、なかなかに心細いし、ハードルも高い。

慣れない土地で、読めない言葉に囲まれて、それでも歩き続けるのは、正直しんどいものがある。

だからこそ、旅には「仲間」が必要になるんだろうなあって。

そして、読書における旅の仲間、それが「読書会」だと僕は思っています。

長編小説を読んでいただくと非常にわかりやすいのですが、あの世界観への没入は、旅先の感覚と本当によく似ています。

フィクションではあるけれど、確かに存在する「あちら側」へ一緒に行って、また一緒に「こちら側」へ帰ってくる。

ドストエフスキーの長編なんかは、まさにその典型です。

実際、以前Wasei Salonのみなさんと5ヶ月かけて、『カラマーゾフの兄弟』を読んだことがありました。そのときのことは、こんなブログにも書いています。

参照:AI時代の「生産性」の概念と、読書会の効用。

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もちろん、文庫本5冊とあれだけの長編ですから、道中には険しい場面もあります。

でも『カラマーゾフの兄弟』に関して言えば、世界中の無数の先人(旅人)たちが「あの先には、すごい景色があるよ」と言い続けてくれているわけです。

だったら、自分にはまだその価値が見えていないだけなのかもしれない。その信頼があるからこそ、険しい道でも進み続けられる。これは、旅先のお寺や神社とまったく同じ理屈です。

古典とは、きっとそういう「観光地」なのだと思います。

人類が長い時間をかけて、風化させずに残してきてくれた旅先。何世代ものひとたちが「ここには一度行ったほうがいい」と教えてくれている場所。

もちろん、実際に行ってみたら、自分にはあまり響かないことだってあるでしょう。でも、それもまた旅の醍醐味です。

自分の好みだけでは決して選ばなかった場所へ、一度身体を連れて行ってみる。そのこと自体に、大きな意味があるのだと思います。

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ただ今回、改めて思うのは、読書会の価値は「一人だと読めない難しい本を、みんなで頑張って読めること」だけではないということです。

むしろ、そのもっともっと手前にある。

そもそも一人だったら、その旅先を選んでさえいなかった。このことのほうが、ずっと重要なんだろうなあと。

友人から「今度ここに行ってみようよ!」と誘われて、初めて知る土地があるように、誰かが選んだ本だから、初めて開いてみる本がある。

自分なら絶対に立ち寄らなかった場所へ連れて行ってもらい、「こんな景色があったのか」と心底驚く。その体験によって、また次の「読みたい」が生まれていく。

だから読書会とは、本を読む場所である以上に、自分の「読みたい」を他者に育ててもらう場所でもあるのだと思います。

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世界には、そんな「まだ受け取れていないもの」が、ほんとうに山ほど存在しています。

自分が生まれるよりもずっと前に書かれた本があり、それは誰かが人生をかけて考え抜いたことでもある。

何百年も何千年も、誰かから誰かへと手渡されてきた物語。

頼んだ覚えなんて一切ないのに、生まれてみたら、すでに足元に大量のバトンが落ちている。これってよくよく考えたら、ホントにとんでもないことです。

僕らはすでに、受け取りきれないほど大量のものを、先人たちから贈られてしまっている。だから、未読の本が山のように積み上がるし、「読まなければいけないのに、読めていないなあ」という負い目なんかも同時に生まれる。

でも最近は、その負い目のほうも、少し違って見えるようになってきました。

積読だって「怠惰の証」なんかではなく、「これから行ける旅先のリスト」だと思えば、ずいぶんとその見え方が変わってくるはずです。

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もちろん、それを一人で全部受け取ることなんてできません。一生かかっても、ほとんど読めないことも既に確定している。

だからこそ、みんなで受け取ればいいのだと思います。

誰かが「次はここへ行こう!」と本を持ってくる。その本をみんなで開いて、途中の景色について語り合いながら進んでいく。ときには、自分では見つけられなかったものを、隣を歩いているひとが「あそこ、きれいだったよ」と教えてくれたりもする。

そして、実際に言われて自分も振り返ってみたら、本当に素晴らしい景色が広がっていたりするわけです。

そうやって、贈与をみんなで受け取る。そして、受け取ってしまった責務なんかもまた、みんなで半分こする。

きっと僕が、Wasei Salonで読書会を続けたい一番の理由も、ここにあるのだと思います。

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とはいえ最後に、念のため書き添えておくと、これは決して「古典を読まなければいけない」という話ではありません。「もっと教養をつけなければいけない」という話でもまったくない。

旅だって強制的に行くものではないですからね。行きたくなったときに、フラッと寅さんのように旅立ってしまうのが、旅の醍醐味です。

そして、そんなフラっと行ってしまった旅先で、思わぬ角度から自らがガラッと変えられてしまうからこそ、旅はおもしろい。

みなさんも、ほんとうに良い旅を!と心から思っています。そして読書会を通じて「これからも良い旅をご一緒しましょう!」と心から願っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。