ものづくりにおいて、物それ自体に客観的な価値があると思っているひとたちはすごく多いです。

でも、ものそれ自体に、本当に客観的な価値があるのかと言えば、実は結構怪しいと思います。

「猫に小判や、豚に真珠、馬の耳に念仏」というように、人間以外からするとそれはまったく何も価値がないというものも世の中には山ほどある。

そう考えると、そもそも価値とは一体なのか。

それが形成されているメカニズムを理解することは、いま非常に重要なことだと思っています。

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まず、ここで僕が真っ先に思うのは、その「価値」自体を理解できているひとたちが、どれぐらい存在しているのか?ということです。

価値を理解した人間による需要と供給、その差分で物の価値は定まっているわけだから。

価値を理解していないひとたちからすると、まさに前述した数々のことわざ通り、何の意味もないものとして映るはずです。

だとすれば、その価値を理解しているひとを増やそうとすること、そのタイミングからすでに「ものづくり」というのは始まっているんだとも言えそうです。

今日のブログで主張したいのは、ここをどれぐらい意識しているのか、という話なんですよね。

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この点、今の日本には素晴らしいものづくりの技術がたくさんある。

でもあまりにも、作り手側がその価値について寡黙すぎるなあと僕は思います。その価値の意味するところが、まったく伝わっていない。

たとえば、茶道で使うような何百万もするようなお茶碗も、一般庶民からみたらただの焼き物でしかないはずで。

だったら100均の器のほうが、見栄えも使い勝手もいいよねとなってしまう。

もちろん、この茶器に関しては極端な例だし、その価値が一部の人達にしか理解されていないから保たれている価値があるのだという説明も一方では存在するとは思いつつも、だとすれば、間違いなく「茶道」と「高級なお茶碗の価格」というのは間違いなくセットでもあるわけですよね。

言い換えると、茶会のような「コミュニティ活動」と「価格」はセットであるといっても良いのかもしれない。

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であれば、その価値自体を伝えていく人々が、地味にものすごく重要になってくるかと思います。

でも今の作り手たちは、消費者側を「価値を理解してくれる人間に仕立てよう」という気概がまったくないなと。

きっと、そこには、様々な理由があるのだとは思います。「そもそも、それは自分たちの仕事ではない」とか「作り手が多くを語るのは、みっともない」とか本当にいろいろな理由がある。

もちろん、大前提として、素晴らしい価値を内包したものづくりを体現することが最優先で大事だと思いつつも、それはものづくりの最後の1割の部分でしかないような気もします。

9割は、その「価値」を理解しているひとたちをいかに世の中に生み出すかのほう。それがものづくりの生死を分ける部分だと、僕は思うんですよね。
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これは哲学における現象学みたいな話で、そもそも「もの自体」なんて最初から存在していない(のかもしれない)のだから。

世界には、ものを見ている(と感じている)人間が存在しているだけです。

そして、少なくとも物々交換を含めて、その市場を形成しているのは、すべて人間です。

そうだとすれば、その人間がかけている眼鏡の方を磨きに行くほうが最初にするべきことだと思うんですよね。

「あいつらの物の価値がわからないから、眼鏡が曇っているんだ」と、批判的にいってみたところで、それを学ぶ機会が人生のなかでなかったのだから、それは仕方のないことだと思います。

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たとえばこれは極端な例ですが、僕ら日本人が大谷翔平や藤井聡太を尊ぶのは、マスメディアの中で、いかに彼らの偉業がすごいのかを、何度も何度も繰り返し伝えられてきているからですよね。

もちろん、そもそも野球や将棋がどのような競技であって、日本におけるその価値や立ち位置みたいなことも、ざっくりと空気として察知している。

もしこれが、野球も将棋も知らないアフリカの人間だとしたら、大谷翔平も藤井聡太も、「だからどうした、俺たちと同じ人間だろ」ぐらいでしかないはずです。

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で、昔は、この空気を理解するための旦那芸を磨くことが社会人として尊ばれるマナーのひとつだった時代があったわけですよね。(もちろん「旦那」とは言いつつ、男性である必要はなく女性でもいいと思います)

価値がわからないことは教養に欠けることだという社会的なコンセンサスがあった。

それが大企業の社内教育の中にも受け継がれていた時代もあるわけですよね。別に彼らは、仕事終わりに遊んでいたわけではないと思います。

これは、内田樹さんや小倉ヒラクさんも似たようなこと良く語っていましたが、本当の一握りのプロ集団の一体何がすごいのかを、体感覚で理解できて、かつそれをある程度言語化できるその他大勢(ヒラクさん風に言うと読モ)が、必要だったわけですよね。

そして、彼らがその一流の技を堪能しようとするから、ものづくりの文化そのものが尊ばれるようにもなるわけです。

つまり、祝祭日の嗜みが、その文化自体を育み、それがものづくりの価値自体を伝承し、商いを反映させていたのが、昔の日本の経済の循環だったんだと思います。

でも、今はそのような文化を育む基盤となる旦那芸自体を覚えるための必要性もなくなり、それを伝承していくための集団やコミュニテイも完全に消滅してしまっています。

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で、逆にいま世界的に大成功をおさめている日本のアニメ業界などは、これに愚直に取り組んできた歴史がある。

今のレジェンドが、スタジオジブリの宮﨑駿監督であることは、決して偶然たまたま生まれたわけではないと思っています。

以前、雑誌「アニメージュ」の歴史をたどる展覧会に足を運んだときに、とてもびっくりしたんですが、アニメージュはこうなる仕組みを当時から意図的に仕掛けていた。

具体的には、一体何をしていたのかと言えば、アニメーターになるための方法をアニメ雑誌「アニメージュ」に定期的に連載として、掲載していたそうです。

つまり、コンテンツを提供するだけじゃなく、コンテンツを提供する側になるための旦那芸養成講座のようなものを紙面上で行い、子どもたちがいつの日にか「若旦那」になるように促したわけですよね。

さらに雑誌を中心にしながら、読者コミュニティもしっかりと形成した。それが、のちのち出てきたインターネットと繋がって、爆発的なひろがりを見せたわけです。

このように、ナウシカが映画化されるまえからしっかりとタネが蒔かれていたんだろうなあと。それが芽吹いているのがまさに今であって、この30年間ぐらいのアニメの軌跡なのだと思います。

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実際、良くも悪くも、現代のアニメの世界には旦那芸を身に着けて、若旦那風の講釈を語る人間が、無限に存在していますよね。

アニメは、まだまだ若い新興市場ゆえに、そのような衒学的な議論をバカにしてくる古参がいなかったことも非常に大きいかと思います。

一方で、日本のものづくり文化は、ここの若旦那養成講座みたいなものを、ことごとくサボった。

茶道のように、「道」を伝えるひとたちもいなかった。良いものさえ作れば大丈夫、わかるやつだけわかればいい、というようなスタンスで、ずっと次世代の”消費者の育成”をサボってきた。

でも結局は、それが自分たちの首を一番に締めることにもつながってしまったわけです。

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繰り返しますが、数十年前までは日本のものづくりの文化が評価されていたのは、その価値を理解できるひとたちが、当時は存在していたからです。

つまり物自体ではなく、そのときに労働人口の中心にいて可処分所得をその文化に対して割ける人たちが、ちゃんとそれに見合ったメガネをかけていたからなんですよね。

物自体によって価値が評価されていたわけではない。価値は時代の中の若旦那がかけている眼鏡が決めている。

逆に言えば、その時代の中心のひとたちのかけている眼鏡によって、その時代の価値は定まってしまう。だから今は、アニメ・アイドル・ゲームの推し活が中心になっているわけです。

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結果として、ものづくりにおいては、今の世の中ではすべてが価格優位の世の中になってしまっています。

ユニクロやニトリ、100均のようなデフレ型の企業と呼ばれるような企業のひとり勝ち状態が続いているような状態です。

もしくは、真逆に振ってバンバン広告を打っている(インフルエンサーマーケティングも含む)ハイブランドが売れているような状態。

つまり、1円単位で他と比較できてとにかく安いという商品か、もしくは凄い(影響力ある)ひとが凄いと言っている商品、この二極化となっている。

その理由は、まさにこうやって起きてしまっているように僕には見えます。

なぜこのようなことが起きているのかと言えば、価値を自らで判断しようとはしないひとたちの、流されやすい浮動票によってその市場が動いてしまっているからだと思います。

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今日語ってきたような理由から、「価値とは何かを共に考えてともに学ぶ」空間を作り出すことがいま本当に大事だなあと思うのです。

何をつくるのか?以上に、実はここが一番重要なポイントだと思っています。

いいものづくりをして、それを理解できない人間を猫だの豚だのと絶対にバカにしないこと。

それよりももっと正直、親切、愉快に「価値とはなにか」を知ることの楽しみをつくりだし、それを共に育み、全員の共通認識にしていくこと。

それが最終的には、みんなでハッピーになれる道だと思います。

これからはAIによってより一層、クリエイティブの部分に関しては自動で作ってくれるようになっていく。

だとすれば、人間側の価値の認識、その理解や解釈がいちばん重要になってくることは間違いないかと思います。ここに、コミュニティの重要性も眠っているはずです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。