昨日もご紹介した投資家・藤野英人さんの『「日経平均10万円」時代が来る!』という本の中で「企業のマーケティングにおいて、軍事用語を使うのはそもそもおかしい」という話が書かれてありました。
これは、僕が最近感じていた違和感にも大きく合致するような内容だったので、今日もこの本に書かれたお話を少しだけご紹介しつつ、今求められているスタンスについて、少しこのブログの中でも考えてみたいと思います。
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さて、それでは早速、本書から少し引用してみたいと思います。
近年、先端的な マーケティングの世界では「軍事用語を使うのはそもそもおかしい」 という話が出ています。
私たちはビジネスシーンで自然に「ターゲットを囲い込む」といった表現を使いがちですが、これは顧客というものを「囲い込むべき標的」だと考えているということにほかなりません。顧客側の立場でいえば、標的にされたり囲い込まれたりしたいとは望んでいないでしょう。「自由で強い意志を持つ一人ひとりの人間」というポジティブな人間観を持っていれば、そのような言葉を使うべきではないということはすぐにわかるのではないかと思います。
これから企業に求められるのは、「ターゲットを囲い込む」ことではなく、強い意志を持った一人ひとりの顧客から選ばれる存在になること だと思います。そのために必要なのは、自分たち自身が強い意志を持ち、社会に対して自社の在り方を発信していくことでしょう。
この話は本当にそのとおりですよね。
自分が消費者側、企業のサービスを用いるときに、企業から囲いこんで欲しいなんて一ミリも思っていないはず。
なのに、多くの人は自分が企業側の人間になった途端に、消費者やユーザーを囲い込むという発想になってしまう不思議。
それよりも、藤野さんが語られているように「強い意志を持った一人ひとりの顧客から選ばれる存在になること」という考え方のほうが、いま本当に重要な視点だなあと思います。
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これはたとえば、近年は恋愛”市場”においてもそうですよね。
みんなが、アマプラやネットフリックスで、かじりつくようにしながら見ている恋愛系のリアリティ・ショーなども、基本的には勝つか負けるかの駆け引きをずっとやっているのであって、まさに「囲い込み合戦」のようになってしまっている。
他にも、マッチングアプリや結婚相談所の話なんかもそうだけれど、彼らはみんなマーケティング戦略を用いて、恋愛市場を勝ち抜こうとしていますよね。
あのような番組にハマっている若い人たちを見て、先輩上司たちは「仕事もろくにできないくせに、恋愛ばかりにうつつを抜かしやがって…」というような批判的な意見を語ることが大半なのかもしれないけれど、逆に僕は、ものすごく仕事熱心だなあと思う。
プライベートの余暇時間においても、マーケティングの論理を用いて、ずっとマーケットという戦場における比較優位の駆け引きに対して熱中しているわけですから。
その証拠に、マーケティング感覚を得意とするひとが語る「婚活戦略」のような話をVoicyなんかで聞いて、みんながそれを「素晴らしい見立て、素晴らしい戦略!」って感動するのだから、いかに今の恋愛市場がマーケティング要素や、マーケティング感覚に侵食されてしまっているのか、それを本当に強く物語っているかと思います。
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ここでくれぐれも誤解しないで欲しいのは、僕はそのような構造自体を一切否定はしません。むしろ、そりゃあそうだよね、と思います。
それがあるがままの世界を認識した結果の姿でもあると思う。
若い人たちを中心に、世界の有り様をありのままに眺めていれば、世の中はそうやって実際に駆動していますし、マーケット感覚が勝負を決める社会構造なっていると捉えるのは、当然のことだと思います。
世の中には、常に競争が存在していて、正しい戦略で勝ち残った人間が「勝者総取り」のような世界観であるんだと学んでいても何もおかしくはない。実際そのとおりです。
子供の頃から、僕らはずっとそのような価値観に染まり続けていて、社会は戦場であるという認識になっているひとが大半でしょうし、その中で、賢くハック思考が強い人たちは、その戦場の中で勝つための「定石」を徹底的に研究しようとしている。
それはきっとオセロで角を取るようなものですよね。
世界がオセロで動いているのなら、角を取るための戦略を徹底的に学び、それを自らが実行した方がいいに決まっています。
そこで独自の戦法を生み出しているような人間は、戦場に出た瞬間に即死します。それは当然の理だと思います。
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でも、やっぱりその定石は、どこまで言っても「戦場の論理」なんですよね。
そうじゃなくて、本当に求めていることは何かを考えた上で、その答えが「ひとりひとり強い意志のあるひとたちから選ばれる存在になること」が大事だと信じるのなら、そうじゃないアプローチをする必要がある。
じゃあ、一体どうすればいいのか。
以外にもその一丁目一番地は、「まず戦わない」ということなんだと思います。
戦い始めてしまったら、戦場の論理を用いているひとたちが、一番強いに決まっていますから。
言うなれば、インド独立におけるガンディーみたいな立ち位置を模索することなんじゃないかと思います。
そして、彼が行った「塩の行進」のような状態を生み出すこと。
あれこそまさに、ガンディーがひとりひとり強い意志のあるひとたちから選ばれる存在になったがゆえに生まれたムーブメントであり現象だったと僕は思うんですよね。
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ガンディーの非暴力・不服従というのは、当時あたりまえだった帝国主義の論理に対して「私達はそのような戦場の論理、その土俵の上には登りません」という宣言でもあったわけです。
そうではなくて、ガンディーは淡々と静かに、糸車を回していた。
最初は、国内の人々や、味方である人たちからも「なんでそんなことしているの?」と疑問に思われたはずです。
でもそれは決して、機械化や近代化自体を否定したわけではないはずなんですよね。原始的な生活に戻ればいいと思っていたわけでもない。
じゃあ、なぜガンディーはそんなことをしていたのか。
ここで少し、以前もご紹介したことのある政治学者・中島岳志さんの『ガンディーに訊け』という本から引用してみたいと思います。
ガンディーは学生から「あなたは機械に対してすべて批判的なのですか?」と問われたとき、「私は機械に対してではなく、機械への狂信に反対しているのです」と答えています。つまり、すべてを機械に依存し、あらゆる欲望を機械の発展によって実現しようとする「狂信」に対して、ガンディーは批判の矛先を向けたわけです。そして、彼は静かに糸車を回す作業を重視しました。
(中略)
彼は近代の機械文明の対極にある手仕事をよしとし、支配の対極にある非暴力をよしとし、人工性の対極にある身体的な自然をよしとしました。彼にとっては、西洋的近代の外部である「東洋的なもの」こそ近代のゆがみを是正する価値ある存在でした。
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僕は、ここに大きなヒントがあるように思います。
歴史の結果を知っている僕らは、その戦場の論理から降りるという選択が功を奏したことをはっきりと知っている。
企業も同じで、このマーケティングの論理から降りること、その変化が今求められているのだと思います。
少なくとも、そのような選択肢は既に選び取れるような状況になってきていると思っています。
具体的には、従来の定石が、短期的にはどれだけ功を奏するとわかっていたとしても、従来的なビジネスの拡大路線、マーケティング戦略からあえて意図的に降りること。
これがいま非常に重要な選択だと僕は思う。
なぜなら、ファイティングポーズを取った時点で、ほかの企業と同列に並んでしまって、それは相手の土俵に登ってしまうことになってしまうからです。
そうじゃなくて、淡々と糸車を回す。そして、真の意味での「塩の行進」のような状態を生み出すことに注力していくことです。
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ガンディーは、塩の行進を行うことを、ちゃんと世界にも発信するべく、当時しっかりと海外メディアにも事前に詳細な情報を伝えていたと言います。
そして実際に多数のカメラでその様子を捉えさせた。だから僕らも「映像の世紀」のような番組で今も、あの映像をしっかりと観ることができるわけですよね。
つまり、決して思いつきの行動や偶然ではなかったということです。
しかも今は、そのメディアをひとりひとりが担っている時代です。であればまた、現代にあった新たなかたちの「塩の行進」のようなものもきっと生み出せるはずで。
そのためには誠心誠意、呼びかけること。
私はこう考えるていると静かに、でも力強く語りかけることが本当に大事なことなんだろうなあと思います。
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マーケティングの教科書に従えば間違いなく勝てる。そのための定石は既に存在している。
もし戦場で勝ちたかったら、ソレを実践すればいい。実際に、多くの優秀な経営者の方々が既にそれを証明してくれています。もし市場で勝ちたかったら、そのあとに続けばいい。
そこで勝つためには、決して奇をてらってはいけない。
ただし、その手法を用いた結果として勝った先に、自分たちが求める関係性や幸福感があるとは思えないのであれば、まったく違う論理で立ち向かわなければならない。
ガンディーは当時、それを非暴力・不服従という形でやり通したから、本当にすごかったんだろうなあと思います。文字通り、命をかけて。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。