昨日、哲学者・戸谷洋志さんの『スマートな悪 技術と暴力について』の読書会がWasei Salonの中で開催されました。

この読書会がとっても良かった!

今日は本書における「スマートな悪」とは何か、その現代社会に存在す課題意識と、さらにこの本の読書会を通して僕が考えたことを少しまとめてみたいと思います。

まず、本書における「スマートさ」の定義からご紹介したほうがいいと思うので、最初に本書から少しだけ引用してみたいと思います。

スマートさとは、余計なものを排除し、人間を受動的にする「賢さ」であり、それはロジスティクスの最適化として立ち現れる。スマートさだけが尊重されるべき唯一の価値になるとき、人間自身もまたロジスティクスに組み込まれ、サプライ・チェーンを維持するための資源と化し、その過程では容易に正義が無視される。ではそこに出現する「悪」はどのように説明されるのだろうか。本章ではこの問題を考えるために、一つの事例を参照することにしたい。それは、ナチスドイツにおける親衛隊の将校であった、アドルフ・アイヒマンをめぐる問題である。


ここから、みなさんも一度はどこかで聴いたことがあるであろうアイヒマンを巡る話が展開されていきます。

過去にこのブログのなかでも何度もご紹介したことのあるハンナアーレントの「悪の陳腐さ」や「無思想性」の話が語られていくわけなのですが、そのうえで著者の戸谷さんは、「スマートな悪」を以下のように定義します。

再び本書から引用してみたいと思います。


ユダヤ人問題の最終的解決のためにロジスティクスを最適化させていたアイヒマン自身が、別の、もっと大きなシステムのなかに組み込まれ、いわばその一回り大きなロジスティクスのなかに最適化されていた、ということだ。この意味において彼は紛れもなく「歯車」だった。本書は、このようにして引き起こされる悪のあり方を、「スマートな悪」と呼ぶことにする。すなわちそれは、人間がテクノロジーのシステムに自らを最適化することで、システムの「歯車」となり、責任の主体としての能力を失い、無抵抗なままに暴力に加担してしまう悪のあり方である。アイヒマンが加担していたのはこの意味での「スマートな悪」である。


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で、きっと、ここまでを読んでくれた方であれば、ご自身もありとあらゆる形で、スマートな悪に飲み込まれている瞬間を感じることは多々あったかと思います。

たとえば、スマートフォンを巡るありとあらゆる構造もそうですし、最近だとスマートシティ構想なんかもそうかもしれません。

現代人の僕らは「スマートな社会」が目指すべきユートピアとして共有していてドンドンとそこに飲み込まれている。

そして、それに抗いたくても抗えないようなレベルで浸透している。

2024年現在は、わかりやすくそこにAIも出てきて、更にそのスマートさがより高度に複雑になっていく。人間にはもはや、その仕組みさえわからないブラックボックスと化しているわけですよね。

こうなってくるともう、人間のためにAIがあるのか、AIのために人間があるのかもわからないような状況になりつつもあるけれど、結果として「スマート」になること、それが理想的な社会だという共通認識のまま世の中はドンドンと前進しているのがまさに今です。

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この点、著者の戸谷さんは、以下のような問題提起を本書の中でしていました。

再び本書から引用してみます。

では、私たちはどうしたらよいのだろうか。スマートな悪に対する処方箋があるとしたら、それはいったいどのように語られるのだろうか。     考えられうる路線があるとしたら、その一つの可能性は、システムに帰属しながらも悪に抵抗しうる存在として、私たち自身を理解する、ということである。しかし、そのように考えることは可能なのだろうか。そのとき人間はシステムに対してどのような関係にあるのだろうか。


これが、本当にめちゃくちゃむずかしい話なあと感じます。

本書においても、そのひとつの解のようなものとして「ガジェット」というメタファーが提示されてくるのだけれども、正直な話、僕にはそれがものすごく非力に感じてしまいました。

喩えるなら「原爆に火縄銃で立ち向かいましょう!」みたいな提案にしか思えなかった。

少し余談なんですが、これが人文系の本の難所だなあと思います。原爆、つまり現代社会にはびこる問題点や悪を、いつもこれでもかとわかりやすく指摘してくれるのに、そのあとの解決策を提示できない問題。

言い換えると、問題提起自体は非常に美しく切れ味があっても、そこから脱するための実現可能性のある提案となると一気に凡庸な答えにたどり着いてしまうジレンマ。

でもこれは著者の方々が悪いのではなく、それぐらい現代は複雑で問題尽くしであり一筋縄ではないかない状態という証なのだろうなあと。頭のキレる哲学者たちでさえ、まったくその難問に答えられないというわけですから。

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結果として、世の中はドンドンと「スマートな悪」に飲み込まれていくわけです。社会に参加するとは、つまりスマートな悪に加担すること、そのものとも言える。

そこに対して、僕らはより強い絶望感を感じてしまうわけです。ここに明確なジレンマも生まれてくる。

で、今日の僕の主張と言うのはまさにここからなんですが、この絶望をひとりで解決し、ひとりで実現しようとすること自体に、無理があるんじゃないかと思うんですよね。

ここで大事な視点は「無責任な応援」だと思うのです。そのための「投票行動」をひとりひとりが行うことなのではないかと。

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それは一体どういうことなのか。

生活と仕事、スマート化の大きな波に僕らは決して抗えない。それが社会人であり、大人の嗜みでもある。国家の発展、企業の発展に資することが、ビジネスマンとしてあるべき姿で評価されることでもあります。

それはまさに、アイヒマンがそうだったように、です。

そこから降りるのはマジで至難の業であって、それができる人間なんて、それこそブッダのような人間だけ。出家するぐらいの感覚でないと不可能だし、世捨て人状態でもあるから、それは世の中自体を変えることには繋がらない。

だとしたら、自分の立場はそのままだとしても、それを代わりに実現しようとしてくれているひとたちがいるとすれば、少しずつでもそこに時間とお金を費やしながら、応援していくことなのではないか。

逆に言えば、自らの中にある種の二面性をまずは肯定しつつ、もうひとりの自分の投票行動を意識することでしか、世界は変わらないのではないか。

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たとえば、日本におけるギャルの立ち位置とかはものすごくわかりやすい例だと思います。

多くのひとは、彼女たちのようなある種の度を超えた真っ直ぐな姿勢みたいなものに憧れを持つけれど自分がなろうとはしませんよね。

でも、そこにそのような「無責任な応援」というアテンションがあるからこそ、彼女たちには一定の関心を集めて、存在してもいられる。そこに経済圏も生まれて、彼女たちの生きる隙間が世の中にも存在しているわけです。

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そして、その範囲を少しずつ広げていくこともきっと可能だと思うのです。

でも今は、消費における場面、投票行動における場面においてもスマートな悪に加担するような消費がメインになってしまっている。

具体的には、コスパやタイパを重視して、ロジスティクスの中に回収されてしまうような消費行動をしてしまっている。

ここでもし何か逸脱することができるなら、自分自身がそのロジスティクス、歯車から抜け出せないとしても、自分がその歯車の外側にいると感じる人達を支援することは可能だと思うし、それがいま大事なのではないか。

もちろん、そのひとたちもまた何かしらの閉鎖性、その歯車の中にいることも間違いないのだけれども、自分よりも外側にいると思うのであれば、その割合や程度問題は、きっと異なるはずで。

そのような祈りの連鎖、祝福の連鎖みたいなものを生み出せないのかというのが、ここでの僕の提案なんです。

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それは、漫画や映画などでよくありがちな「自分たちの命が助かることは不可能でも、この子どもだけは生き延びて欲しい」と願う心みたいなもの。

僕自身が、イケウチオーガニックさんや群言堂さん、坂ノ途中さんを応援する理由もまさにここにあります。

そして個人であれば三浦希さんや、鞆の浦で活躍する長田さんや、nagareの石川さんなんかもまさにそう。

みんな僕からすると、「スマートの悪」に対して、僕よりも外側にいるひとたちに感じられる。つまり、単純に「希望」なんですよね。

自分が彼らと同じような愚直な活動ができるかどうかと言われたら、たぶん無理。

でも、そうやってスマートな悪の方に加担してると思うからこその「うしろめたさ」があって、ゆえに、彼らを少しでも応援したいと思うわけです。

ちょっとでも生き延びて欲しいと願う。どうか、まっすぐにそのまま伸びて欲しいと。

中島みゆきの『空と君のあいだに』の歌詞ではないですが「君が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなる」のなるのあの精神です。

そして、もしかしたら、彼らでも、その歯車の外に出ることは不可能かもしれない。でもきっとその挑戦は無駄にはならない。次のバトンを繋いでくれる、その贈与を発見する子どもたちが、きっと現れる。

少しずつでも、そうやってちょっとずつちょっとずつ、バトンを繋いで逸脱していく。それが巡り巡って、自分たちにもいつか返ってくるという状況を作り出すことがいま大事なんじゃないかと思うのです。

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繰り返しますが、これはものすごく無責任な話なんです。

最後まで見届けて責任を取れるわけではないから。でも、僕はそんな無責任な応援って、実は両者にとって、とても大事な視点だなあと思います。

彼らのような企業や存在がいつか世の中のメインストリームになるかもしれないし、全然ならないかもしれません。

でも、もし世界が変わり得ることがあるとすれば、きっと、こういう全員の少しずつ逸脱した無責任な応援からなんじゃないか、結構本気でそう思っています。

だから今日も僕は、自らが「スマートな悪」に飲み込まれながらも、そこからちょっとでも遠い人々を応援する。

これが昨日、ほしまどさんの「クラッカーと白餡」の話から得られた学びでもあったので、気になるサロンメンバーはぜひアーカイブの動画を観てみてください。

https://wasei.salon/events/3727c2f0254f

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。