昨日に引き続き、近内悠太さんの新刊『利他・ケア・傷の倫理学』の話をしたい。

今やっと50%まで読み進めたのですが、この本は本当に素晴らしい本だなあと思います。

現代社会の歪さや違和感みたいなものを、本当にわかりやすく丁寧に説明してくれているなあと思います。

それがなんだかとても美しい本質看取だなあと思いますし、アニメ・マンガ・ゲーム、小説や映画など、僕らに馴染みのある作品を多岐にわたり引用や紹介をしながら、非常にテンポよく、そしてリズムよく語ってくれている。

タイトルに「倫理学」とあるけれど、一般的な哲学書のように堅苦しい印象ではなく、僕ら一般人にも非常にわかりやすく書かれてあります。

哲学者・東浩紀さんが帯を書かれている理由もよくわかる。東さんの『訂正可能性の哲学』にも似ている構成ですし、内容自体もまさに訂正可能性のような内容になっています。

ぜひみなさんにも、読んでみて欲しいなあと思っています。

そして、読み方によっては、web3関連においても、非常に参考になりそうな話が至るところに散りばめられているなと感じます。

で、ここからが今日の本題に入っていきます。

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近内さんご自身が国内のNFTコミュニティの動向を眺めていらっしゃるのかなあと思うほど、NFTコミュニティに関連しそうな話も散見される。

具体的には、最近NFTでも話題になっていた「バフとデバフ」の話が本書でも語られていました。

もともとはTVゲームの用語ですが、まずは近内さんの説明をそのまま引用してみたいと思います。

これは主に、オンラインの対戦ゲームなどで語られる概念です。例えば、味方プレーヤーと協力して(敵を 殲滅 するとかゴールを目指すといった) ミッションを達成しようとするゲームにおいて、自身の持つ特殊能力によって味方プレーヤーの攻撃力を高めたり、負傷した仲間を治療できたりといった、プラスの効果を付与するものを「バフ」と言います。逆に、味方の走る速度を遅くしてしまうとか、敵からの攻撃に対する防御力を弱めてしまうような効果つまり負の効果をもたらすものを「デバフ」と呼びます。簡単に言えば、ゲーム内のミッション達成に資する効果をバフといい、ミッション達成を何らかの意味で阻害してしまうものをデバフといいます。     


そして、ここで昨日もご紹介したように「現代は相手のために良かれと思って為したことが、相手にとってはまったく好ましくない状況に陥る時代である」という話を、ぜひ思い出してみてほしいです。

現代は、多様性が尊ばれるゆえに、むしろ他者から不用意に傷つけられる経験をしてしまう(させてしまう)という事態が、しばしば起こる。

言い換えると、こちらにとってのやさしさと相手が受け取るやさしさがズレてしまって、そのズレる要因がまさにまさに、このゲームにおける「バフとデバフ」の話につながっていくのです。

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では、どうつながるのか?

具体的には、味方プレーヤーへの「バフ」として意図して為したことが、そのプレーヤーにとっては「デバフ」になる、と。そしてそれは、ゲームの「ルール」に依存する事柄であると、近内さんは語ります。

以下、本書から再び引用してみたいと思います。

「良い/悪い」という観点は、あるゲーム内部でのみ確定する。
あらゆるゲームの共通の「良い/悪い」は存在しない。
善悪はゲームに依存する。

もし、味方プレーヤーに差し出したバフが相手にとってはデバフになるという「バフ/デバフの反転」が起こるのならば、それは、同じゲームを営んでいない、ということになる。つまり、何が言いたいかというと、差し出したバフ(やさしさ)がデバフ(ありがた迷惑)になるのならば、その2人は異なるゲームを営んでいる、ということになるということです。やさしさかどうかは受け取る側の認識次第だ、という安易な相対主義は生産的ではありませんし、事実でもありません。


そして、ここから本書は後半に入っていき、ウィトゲンシュタインの言語ゲームの話に入っていきます。僕自身もこの先はまだ読んでいません。

ここでまた一度本を閉じて、この先を読む前に自分自身で考えてみたいなと思ってしまいました。

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この点、一般的に語られがちな、

「やさしさかどうかは、受け取る側の認識次第だ」
「いじめられているかどうかは、受け取る側の認識次第だ」

この言葉は、過去十数年ずっと印籠のように掲げられてきた話であって、言っている意味自体はとてもよく理解できるし、ソレに対する批判も浮かばないのだけれど、僕にとってはものすごくモヤモヤする言葉でした。

でもそのモヤモヤの原因のようなものが、やっとわかってきた気がします。

真の問題は「相手の認識」というよりも、「お互いがどんな『ゲーム』を営んでいるのか」の問題だったわけですよね。

言い換えると、同じゲームをプレーしていないと他者のゲーム内における「バフ」が、こっちにとってのゲームにおいてはデバフになるということです。そしてそれが、昨日の「傷」の話にもダイレクトにつながっていく。

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この話を、NFTやトークンの話に絡めると「ガチホは正義、ペパハンは害悪」というのは実際にそのとおりだし、一方で「いやいや、利確は正義」みたいな話も、個人の投資家の観点からはありえて一向に議論が平行線をたどるわけです。

それは、お互いに、全く異なる時間軸のゲームを行っているから。

そしてこのような対立が起きるとすぐに、「正義の反対はまた別の正義。」というあの話も持ち出されてくる。

でも、それだと、相対主義になってしまうだけなんですよね。

実際に事実そうであったとしても、それだと「人それぞれだよねー」の話で終わってしまう。人それぞれだと、そこに進展は生まれてこない。

大切なのはそうじゃなくて、Voicyで苫野一徳さんがよくおっしゃっていますが、そのそれぞれが違うという前提のうえで「共通了解を探る試み」がいま本当に大事なんだろうなって思います。

そのためには、お互いがどんなゲームをプレーしているのか、そしてどんなルールであればお互いのバフとデバフが食い違わずにすむのか、を考える必要がある。

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ここまで考えてくると、どれだけ「正義」の話をしてみても仕方ないということがわかるかと思います。

正義は常に相対的なものだからです。ソレよりもお互いの営んでいるゲームを明確にしていったほうがいい。

相対的な正義があるとちゃんと理解できたところで「だから俺たちはわかりあえないんだ」と絶望するだけであって、大事なのはそこじゃない。

そのうえで同じゲームのルールや規範意識を共有していさえすれば、お互いのゲームは続行できるだろうとちゃんと理解し合うことのほうが大事なはずで。

逆に言えば、いまweb3の業界において、市場を創造するという形において、必死で行われていることは、そのゲームの統一の話であり、ルールや規範意識の統一の話なのだと思う。

NFTを含むトークンは、人によってはただのデジタルアイテムだと語り、株のようなもの、アート作品、ファンクラブ、クラファン・・・などなど、果たして一体何なのだ?と、まだ誰にもハッキリとそれがわからない。

そして、ゲーム自体が曖昧だから、当然バフとデバフが延々と食い違うわけです。

でもたとえば、今のビットコインがそうであるように、これは「デジタルゴールドである」という共通認識が定まってくると、ETFにも承認されて、広くそのゲームのルールも明確になって、参加者同志が「投資」というゲームをするようになる。

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いまweb3はまさに、そのゲームを明確にしているタイミング。

それが実際に定まっていくなかで、それぞれが「なるほど、そういうゲームなのね。」という共通了解を見出し合ってお互いに健全な緊張関係のなかで一つのゲームをプレーするようになる。

そのための対話であり、共通了解を見出す行為なのだろうなと。

そして、ゲームのルールっていうのは実際にそのゲームが始まってから、遡行的に発見されるものでもあるわけです。まさに、訂正可能性の話。

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ただし、最後の最後にちゃぶ台をすべてひっくり返すようなことを言ってしまうのですが、このルールを明確にしすぎると、また「境界線」の話にもつながってしまう。

具体的には、あちら側とこちら側にわかれることになってお互いのバフとデバフの食い違いは防げても、逆に「分断」が進むことになる。

最近オーディオブックで聴いている村上春樹の長編小説『騎士団長殺し』の中には、こんなセリフが出てきます。

主人公と不倫相手の女性が、なぜ自分たちの関係性がうまくいっているのかベッドの中で語るシーンの女性のセリフです。

以下本書からの引用です。

「それはつまりこういうことじゃないかと思うの」と彼女は言った。「私は私の知っているルールに従ってゲームを進めている。そしてあなたはあなたの知っているルールに従ってゲームを進めている。そして私たちはおたがいのルールを本能的に尊重している。そして二人のルールがぶつかりあって、面倒な混乱を来さない限り、そのゲームは支障なく進行していく。そういうことじゃないかな?」


そしてこの話を聞いて「ルールを確認し合うことが大事なの?」問う主人公に、不倫相手の女性の相手が否定します。

「いいえ、あなたは何もわかっていない。私が求めているのは、試合のルールについて何ひとつぜんぜん語り合わないことよ。だからこそ、私はこうしてあなたの前で剝き出しになれるの。」


このように言い放ったうえで、大切なのは 「とりあえずの信頼と尊重。そしてとくに礼儀」だと語るのです。

つまり、今日語ってきたように、ゲームのルールが大事でそれこそがバフとデバフの原因なのだけれども、そのルールがハッキリすると共にいられなくなる。

だから変わらず、境界線は曖昧にしたほうがいいと僕は思います。でもそれゆえに、傷は生まれ続けるし、なかなかに悩ましい問題。やはり礼儀の問題ですね。

引き続き本書を読み進めながら、このあたりは丁寧に考えてみたいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。