昨夜、『利他・ケア・傷の倫理学』を読み終えました。
最後の30%ぐらいは本当に時間を忘れるようにして貪るように読んでしまいました。
いま出張で京都に来ていて、本なんか読まずに京都観光をすればいいのに、ページをスワイプする手がまったく止まらない。
物語でもないのに、物語を読んでいるような心地よさ。そして前半の伏線が見事に回収されていく気持ちよさがある本当に不思議な本でした。
これは、必読本だなあと思います。
僕はきっと、年内にあと3回程度は読み返して、その後もずっと手に取り続ける本になりそう。実際『世界は贈与でできている』も、もう何度オーディオブックで聴き返したかわかりません。
ぜひ本書も、一刻も早くオーディオブック化もされて欲しいなと切に願っています。
ーーー
で、この場でご紹介したい話というのは山ほどあります。
そして、自分自身で引き受け直して改めて考えてみたい問いも山ほどある。
でも今日はシンプルに、自分が「あっ、そうだったのか!」と長年の問いが腑に落ちた話、それを自らの備忘録的に書いておきたいなと思っています。
ーーー
では、何に対して、最後に触れておこうかと思ったのか。
それは僕が心理学者・河合隼雄さんの本、そしていま村上春樹さんの長編小説に惹かれているその理由についてです。
それが今日のタイトルにもある通り、おふたりとも人間の魂を見ているから、というお話です。
この魂を見るというスタンスが、今とっても大切だなあと思う。
ーーー
これは、唐突に語られるとなかなかにスピリチュアルな話ですよね。本書から引用しながら丁寧に説明していきたいと思います。
近内さんは、本書の第2章において、心理学者・河合隼雄さんとカウンセリングを受けに来た女性との会話の話を紹介しながら「もし人間に『魂』というものがあるとしたら、河合隼雄先生はそこだけを見ておられました」という女性の言葉を紹介しています。
そして、第4章において、再びその話を持ち出し、以下のように語るのです。ここが僕はものすごくハッとした点になります。
「魂を見る」とはその人にいかなる劇もいっさい期待することなく、その人と向き合う、ということではないでしょうか。
僕らは普段、誰かと相対したとき、その人の属性、肩書き、表情、雰囲気といった情報から、この人が位置付けられている劇はこういったものではないか? と瞬時に前提してしまってはいないでしょうか。その人が展開してきた言語ゲーム、今展開しようとしている劇を予測して、対処しようと構えてしまっているのです。なぜなら、予測できない不確実なコミュニケーションを僕らは恐れるからです。
そうではなく、ある特定の劇を前提とせず、その人の前に立つこと。
それはすなわち、どのような言語ゲーム、どのような劇であっても驚かないことです。 何を語っても、どんな所作をしたとしても、驚かないこと、不安に感じないこと。少なくとも驚きや不安を見せないこと。つまり、河合隼雄の「魂を見る」という技術は、今からあなたの「心」が語り出されるのをただ待っている、という応答だったのではないでしょうか。
この表現に、なんだかとても励まされたような気持ちになりました。
そして、「なるほど、だからこれまで河合隼雄の本を必死で読んできたんだ」と思ったんですよね。その動機というか好奇心の源泉みたいなものを、上手に言語化してもらったような気持ちになりました。
つまり、僕は河合隼雄さんのような相手の中にある「魂を見る」プロが、一体何をどにょうに大切にしているのか、それがより詳細に知りたかったのだと思います。
ーーー
じゃあ、なぜそんなことを知りたかったのか。
きっとそれは、無意識的にお互いに「魂」を見てそれを尊重できる空間をこのWasei Salonの中につくりたかったから。
特に先ほど引用した言葉の中にある「今からあなたの『心』が語り出されるのをただ待っている」という態度やスタンスを、第一にした空間づくりをしたい。
しかも「私とあなた」の間だけでなく、コミュニティという場を通して、みんなで待てる空間を作り出したいと本気で思っていたからです。
このようなスタンスが、そこに参加している一人ひとりの方々の「魂」それ自体を尊重することにつながると思ったからです。(魂レベルで言えば、人間は全員本当の意味で、フラットですからね)
ーーー
いや、でも、もっと正直に語ると、それだと因果関係やその順序というものが正しくないかもしれません。
本当のところは、そのような空間が、なぜWasei Salonの中でいま実際に立ちあらわれているのか、そこに参加しているメンバーが居心地の良さを感じているという状況が生まれつつあるのか、果たしてこれは一体何なんだ…?ってことが、その問いの出発点だったのだと思います。
で、このタイミングで村上春樹さんの話にもつながってきます。
最近、なぜ自分がこんなにも村上春樹さんの長編小説作品を連続して聞き続けているのか、その理由が自分でもハッキリしませんでした。
ただただ惹きつけられるからそうしているだけ、としか説明できなかった。
今月に入って、もうかれこれ100時間はゆうに超えるぐらい、ずっと村上春樹さんの長編作品だけを聴き続けていると思います。
近内さんは、村上春樹さんのあの有名な『壁と卵』のスピーチを引用しながら、村上春樹作品も同様に、「魂を見る」作品だと本書の中でご紹介しています。
孫引きのような形になりますが、村上春樹さんのスピーチをここにも引用しておきます。
私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。
村上春樹作品には、本当に驚くほど、同じことが延々と繰り返し描かれている。
ときに読み手のこちら側が「やれやれ」と思わされるぐらいに、同じ話が繰り返し語られています、でもそれがいいんですよね。
井戸のまわりをグルグルまわってくれているから「なるほど、そこにあるのか!」と理解できる。
「魂」の核やその芯みたいなものは、人間には絶対に捉えられなくても、その輪郭であれば徐々にハッキリしていくる。まるで底の見えない井戸のように、です。
言い換えると、そうすることで、匂いや気配、暗闇の中における手ざわりみたいなものがわかってくるのだといえば、いいのかもしれません。
「身体に効く」とはきっとそんなふうに、ロジックではなく、この感覚を「物語」を通して腹落ちさせていくことなのだと僕は思います。
ーーーー
今回、この『利他・ケア・傷の倫理学』読んでみて、僕らのコミュニティが進んでいる方向は、決して間違っていないんだと改めて確信できました。
というか、この本の表現を借りると、そんな匂いや気配、手ざわりを頼りに、新しい物語や言語ゲームに飛び移る「勇気」の問題なんだろうなあと思います。
現代には「正しいが満足できない説明」が溢れかえっていて、「間違っていないが納得できない理由」もありふれている。
それらを割り切ることができないのが人間であると、近内さんは書かれています。
そんな人間の不合理性のようなものをある意味で祝福し、肯定するのは、本当にむずかしいことであって、そんな隙間を埋めて架け橋をつくりだそうとする営みがまさにケアであり利他なんだろうなあと。
ーーー
だからこそ、僕はこの場において、参加しているメンバーひとりひとりがおのずからエンカレッジされて、励まされいると感じられる感覚を大切にしていきたいと思っています。
ここに参加している間は顔色がドンドンと明るくなり、でもまた世間にまみれて顔色が徐々に暗くなったとき、再び帰ってこられる場所として、このサロンが活用されていること、その不思議さにもっともっと驚きたい。
こんな言い方をすると、ものすごく無責任だと思われるかも知れないのですが、なぜそうなっているのか、この場を運営している僕自身が一番不思議なんです。
その不思議さをずっと理解したいと思い続けてきた。
そして、いまこの本を読み終えて「魂を見る」ということをひとつキーになっているのだと、ハッキリと理解できました。
ーーー
そしてそれは、相手の肩書や醸し出している空気や雰囲気に対して、ではなく相手の魂に対しての礼節であり敬意の話でもある。
昨日もご紹介した村上春樹さんの『騎士団長殺し』に出てくる言葉を借りると「大切なのは 、とりあえずの信頼と尊重。そしてとくに礼儀」ということなんでしょうね。
僕自身も、もっともっとそれを大切にしていきたいなと思いますし、これからもより深堀りしていきたいなあと思う事柄です。
ーーー
昨年の2023年のベストの1冊は、哲学者・東浩紀さんの『訂正可能性の哲学』だったけれども、今年2024年のベストの1冊は間違いなくこの『利他・ケア・傷の倫理学』になりそうです。
そして、あとがきでご本人が書かれていたように、今作は、前作の『世界は贈与でできている』の続編でもあって、さらにもう一作品続く予定で、ぜんぶで三部作であると書かれていました。
前作が「受け取る」であれば、今作は「与える」の話、そして、次回作は「手放す」の話になると。もしくは、受け取る、与える、諦めるの3部作だと。
これは本当に、今からとても楽しみで仕方ない。比較対象が間違っているだろうとは思いつつ、ジブリの最新作を待つような心持ちです。
改めて『世界は贈与でできている』をAudibleでも聞き返したいなあと思いましたし、この3作目が出てくるまでは絶対に死ねないなと思う。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、ぜひとも実際に手にとってみて欲しい1冊です。