最近、各方面で語られていいる「フォロワーから、ステークホルダーへ」というお話。

この説には、僕もまったく異論はなく、考えれば考えるほどそのとおりだなあと思っています。本当に不可避であり、一度移行が完了したら不可逆だとも思います。

ではなぜそう思うのか。

この点、過去15年ぐらいは、インターネットの普及によって、一人でハックができるようになった時代です。それが「個人の時代」と騒がれていた理由でもありました。

でも、今はみんなでハックしなきゃ、ハック自体が効かなくなってきているんですよね。なぜなら世の中のアルゴリズムが、一人ハック対策を緻密に行うようになってきているから、です。

一人でハックすることが世の中的にも当たり前となり、そのためのノウハウなんかも確立され、ゆえに受け手側も含めてそのハックで作られるコンテンツに飽き飽きしてきて、プラットフォーム側もその雨後の筍のように出てくるコンテンツに対して多くの対策を練っているわけです。

そうすると、必然的に個人ではどうにもハックできないことのほうが、より一層重要な要素になってくる。

そのために、インフルエンサー同士がコラボしてみたり、個人がチームや会社を作ってと試行錯誤されてきた経緯もありますが、それさえも一般化してしまいましたし、結局はそれも個人ハックの延長です。そこに目新しさはあまり存在しない。

だから、これから先は、その受け手の”消費”の飽きと、プラットフォーム側の対策の裏をかくようなハックしないといけない。

先日イケハヤさんがアマゾンレビューなどを、みんなでハックするという話をVoicy内で言及されていましたが、まさにそのような観点です。

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これからは、似たような興味関心を持っている人間の意識や視座を丁寧にそろえて、そこにコミュニティを生み出し、みんなで同じ方向を向かなければ、プロジェクトは前に進んでいかない。

そして、そのためのインセンティブ設計も新たに整えて、ファンやフォロワーから「ステークホルダー」になってもらい、丁寧に剰余価値を分配しながら、みんなでハックしながら拡大していけるところが、本当の意味でプロジェクトとして強くなっていくのだと思います。

この点、僕も最近自分が大口のステークホルダーとなっているとある方から打診をいただいて、二つ返事ですぐにお手伝いすることをOKしました。

わかりやすい報酬なんかなかったとしても、その方のプロジェクトがうまくいってくれれば、コミュニティ全体にもリターンがある。そしてもちろん、自分自身にもリターンがある。

頭ではわかっていましたが、実際に体感してみると、これは本当にものすごくおもしろい感覚なんですよね。今までの仕事の受け方とは全く異なります。

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つまり、ここまでの話を一旦まとめてみると、個々人が孤立して、それぞれの成果をあげる時代から、より大きなコミュニティやそこにいるステークホルダーたちとともに連携して、共通の目標に向かってあげられる成果のほうが、より一層重要性が高まってきているということです。

そのための「コミュニティ」であり、NFTも含めた「トークン」であり、それを周知徹底するための「音声配信」ということなんだと思います。

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じゃあ具体的に「みんなの視座」を揃えるためには、一体どうすればいいのか。

このあたりから僕の持論であり、今日の本題にもなっていきます。

で、これはきっと逆の視点から眺めたほうがよくて、具体的には今一体何がどのように「ズレて」いるのかを考えたほうがいい。

この点、『世界は贈与でできている』を書かれた哲学研究者・近内悠太さんの新刊『利他・ケア・傷の倫理学    「私」を生き直すための哲学 』を今読んでいるのですが、この冒頭の問いの立て方から、非常におもしろかったです。

「ケアや利他が、今日の話と一体どんな関係があるの?」と思われてしまうかもしれないですが、これが意外と関係あるんじゃないかと思います。

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近内さんは本書の中で「ケアとは、その他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体のこと」を指すと、定義をしています。

そして「利他とは、自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること」と定義しています。

これはどちらも、ものすごく納得感のあるお話ですよね。

そのうえで、僕らの善意というのはいま完全に空回りしてししまう時代になっていると語るのです。なぜなら、現代は多様性の時代に向かっているからだ、と。

少し本書から引用してみます。

文明と文化が進めば進むほど、利他は難しくなる。それは、近代的前提だけではなく、文明と文化の根本的な問題です。なぜなら、文化が発展し、複雑になればなるほど、私とあなたのあいだで、大切なものが共有されなくなってゆくからです。例えば、異教の人同士を考えてみればよりクリアーになると思います。
(中略)
これは、いわゆる「大きな物語の失効」と言い換えることもできます。現代における「多様性」というのはそのようなことを指します。


これは本当にご指摘のとおりだなあと思います。

本書の中でも言及されていましたが、つまり現代は「汝が他人にしてもらいたいと思うことを、汝も他人に対してなせ」というあの有名な黄金律が、全く通用しなくなっている時代であるとも言える。

それをしてしまうと、意図しないところで「他者の大切なもの」を優先するどころか意図しない形で踏みにじってしまって、相手の地雷を踏みかねないわけですよね。

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これは余談であり、少し腹を割った正直な話なんですが、僕はやっぱりどこかで「ケア」という言葉がなんだかものすごく苦手でした。

変な言葉に聞こえるかもしれないですが、ケアの中にある「自己中心性」みたいなものを直感的に感じ取るたびに、虫唾が走る感覚があったんですよね。

でも近内さんのこの本を読み始めて、その理由が少しずつ腑に落ちてきました。

僕らがいま真に追求するべきは「相手の大切にしているもの」から始まるケアというスタンスであって、何か自分の利己的な目的のためのケアであってはならいのだろうなあと。

最近ブームのように語られる一般的な「ケア」の文脈は、他者をコントロールしようという恣意的で利己的な目的が見え隠れしていたことが、本当に気持ち悪かったんだと思います。

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だからこそ、まずは相手視点が重要であり、「他者の大切にしているもの」を軸としたケアと利他が必要だということなんだと思います。

ただし、じゃあここで問題になってくるのは「大切にしているものは目には見えない」という根本問題がある。

もしそれが表立って見えていれば、それを大切にすればいいだけの話ですからね。僕らが他者の身体を侵さないのも、それが理由です。血が流れることは、明確な侵害にあたります。

でも、多くの場合、それが目には見えないから僕らは困ってしまうわけです。

具体的には、ジェンダーの問題だったり、朝井リョウさんの『正欲』のように一見すると見分けがつかないところに、本人にとって一番大切なアイデンティティやマイノリティ性が存在しているから困るわけですよね。

じゃあどうするのか。見えないんだから諦めるしかないのか。

それが本書の3つ目のテーマである、「傷」がその合図になるということなんだろうなあと。

なぜなら、大切にしているものは見えないが「大切なものが大切にされなかったこと」はちゃんと目に見えるからだ、と。 つまり、大切なものが大切にされなかった時、ひとは「傷つく」からです。

ここのロジックに関しては、僕はとっても感動しました。本当にそのとおりだなあと。

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つまり、傷から逆算していけば、相手の大切にしているものが自然と見えてくる。

そして、いたるところに現代は傷が転がっている。なぜなら、他者の大切なものは「多様性」という正義の旗、その大号令によって逆説的にドンドン踏みにじられているからです。

これはなんとも皮肉な話ですよね。それぞれが踏まれないようにと、多様な方向に向かったら「大きな物語」が終焉してしまった。

人々はバラバラになり、自分が大切にしたいものは大事にできる環境はキレイに整ってきたけれど、その分、相手の大切にしているものが何なのかが全くわからなくなり、結果として余計にお互いに足を踏むようになって、傷つくひとがドンドン増えているという社会構造がまさに今です。

でも、もちろんこのことを嘆いていても仕方ない。これもまた不可逆でもあるはずですから。

新たな不一致を防いでいくほかないんだろうなあと。つまり「傷」を頼りに、自分たちにとっての「大きな物語」を再創造していかなければいけない。

それが今のコミュニティ文脈だし、もっと言えば、宗教のような共同体の復興がいま叫ばれている大きな理由でもあるんだろうなと思います。

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僕自身、まだこの本を読み始めて20%程度なので、本書の中では、全然違う結論が語られているのかもしれません。

だけど、どうしても本書を読み終える前に、この問いに対して自分なりに一度しっかりと考えてみたくなってしまいました。

それぐらい本書の冒頭の問いの立て方は素晴らしかったなあと思います。

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さて、ハックの話をもとに戻すと、ハック自体には明確に好き嫌いがあると思います。

僕もどちらかといえばハックは苦手です。

じゃあ、どうしてハックが苦手なのかといえば、そのハックの「結果」の方ばかりに注目が集まってしまい、そこからリバースエンジニアリングがなされて、ソレが情報商材的に高値で売買されて、本質からドンドンとズレていくからからです。

そうやって頭が悪いひとたちが、ドンドンと手段を目的化していくことが。きっと得意じゃないのだと思います。

とはいえ、何か事業をうまく導くためには、インターネットやSNSのちからを駆使しないことは現代においてありえないように、コミュニティやステークホルダーという構造は用いざるを得ないものになるはずです。

そして、その時に必要な観点は、意外と今日語ってきた近内悠太さんの新刊が掲げるような「利他・ケア・傷」の3つの観点なのかもしれない。

言い換えると、これこそがコミュニティに参加しているメンバー同志の視座を揃えるために、必要な要素なのかもなと思います。

引き続き、本書を最後まで読み進めながら考えていきたいポイントです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。