リモートワークが当たり前となった現代において、色々なひとたちとリモートワークについて会話をする中、大きく分けてふたつの前提(思い込み)が存在するなあとよく思います。

ひとつは、リモートワークができるようになったから、より一層自分にとって「理想的な暮らし」ができると信じているひと。

このひとたちにとっては「仕事はなるべく遠ざけるもの」という認知があるような気がしています。

もうひとつは、リモートワークができるようになったから、より一層自分にとって「理想的な仕事」ができると信じているひと。

このひとたちにとっては、「仕事はより身近に近づけるもの」という認知があるような気がしている。

どちらも、リモートワークによって働き方自体が大きく変わったのだけれども、後者のひとは固定の場でしかできなかった仕事に内在していた柵から開放されて、より一層仕事に拍車がかかり、前者のひとはより一層、仕事を自分から遠ざけるようになっています。

一見すると、似たような挙動をとっていて、同じことをしているように見えるのだけれども、数年後には仕事における成果みたいなものは、雲泥の差が生まれるのは間違いない。

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また、似たような働き方の変化において、リモートワークのような環境の変化から、いま40代のひとたちを中心にバンバン転職をしています。

特に外資系に転職しているひとが本当に多い。

その主な理由は、外資系の企業が円安を好機と捉えて、日本の企業の1.5〜2倍ぐらいの給与を出すという理由で、本国とのリモートワークも可能ですし、日本の企業で働くのがバカバカしくなってしまって、転職したという話は本当に至るところでよく耳にします。

ただ、そのうえで2〜3年後にAIがもっと実用化フェーズに入ったら、一番最初に首を切られるのも、そのようなタイプの人達であることは間違いない。

外資系の企業は、日本企業なんかとは比べ物にならないぐらいバンバン躊躇なく首を切っていくはずですからね。

「あのとき、高い給料とフルリモートワークの環境に目をくらませずに、日本企業に残っていたほうが良かったよね」という結論も、将来から見たら十分にありえるはずで。

本当に、何が「働く」の正解なのかは一概にはわからないなあと思います。

まさに塞翁が馬だし、逆に言えば、選んだ選択を自らの正解にしていくほかない。

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じゃあ、このようなリモートワーク全盛期において、肝心なことは何なのか。

ここからが今日の本題部分となります。

そしてそれはやっぱり「直接会いに行く」っていう行為だと思うのですよね。

もうコロナ期間中に何万回も繰り返された議論で、なにを今更と思うだろうけれども、じゃあ、直接会って僕ら人間は、一体何をしているのか。

それをちゃんと説明できるひとは、意外と多くはないんじゃないかと僕は思います。

大体の場合は、何かフワッとしていることを理由にあげることが多い。

空間をともにすることが〜とか、雑談が〜とか、五感が〜とかそういう身体性の話に回収してしまう。

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でも、もう少し理屈っぽくも言えるはずだと思っていて、それがまさに僕は以前もご紹介したことのある東浩紀さんが語る「訂正する力」であり、その「訂正する力」が発揮される瞬間が人間同士が直接対面に会っているときに起こることなんじゃないかと思うわけです。

ここが今日本当に強く強調したいポイントです。

東さんは、新刊『訂正する力』という本の中で、「じつは……だった」という過去の再発見とセットになった漸進的な改良しかなく、それこそが重要なのだと書かれてありました。

以下で、本書から少しだけ引用してみたいと思います。

特定の土地で営々と続いてきた文化や慣習は、リセットしようとしてもなかなかリセットできるものではありません。いくらイデオロギーで表面だけ洗脳しても、家族形態や食習慣や住居構造はなかなか変わらない。そのため、肝心なところはもとに戻ってくる。     だから訂正の発想が必要なのです。ぼくたちにできるのはリセットではなく改良しかない。しかも改良といっても、改良主義という言葉で想像されるような上から目線の合理性の押しつけではなく、「じつは……だった」という過去の再発見とセットになった漸進的な改良しかない。「じつはあなたたちは昔からこうだったんですよ」という言いかたをしながら、少しずつ内容を変えていくやりかたしかない。


詳しくは、ぜひとも本書を手にとって欲しいのですが、まさにこれは先日ご紹介した「孔子は自らを祖述する者」として語ったという話にもつながるなあと思います。

そしてこの東さんが語る「じつは……だった」という発見が、仕事や、それに付随した人間関係においてもめちゃくちゃ重要だと思っていて、逆説的だけれども、直接会っているときのこの遡行的な変更こそが「関係性の変わらない維持継続」のために圧倒的に必要な訂正する力だと思うんですよね。

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そして、まさにAIと人間の違いというのも、きっとここにあるはずで。

東さんは、人間が人間であるゆえんはどこにあるかというと、それは無意識の連鎖に対する「メタ意識」にあるといいます。つまり、「あれ、違ったかな」という訂正こそが、人間の人間性を支えているのだと。

AIには言葉の世界しかないのでこの訂正ができないんだ、と東さんは語ります。

これは本当にそのとおりだなと僕も思っていて、身体性を伴って直接会うと全然違う印象を抱く理由というのはまさにここにあるし、そうやって僕らは逐一、自らと相手の関係性を訂正し続けている。

東浩紀さんは、本書の中で以下のように続けていました。再び引用してみたいと思います。

人間の訂正する力の発露はじつに自由自在です。たとえば人間は、不毛な論争を打ち切るために、まったく関係のない身体的な行為を導入することがあります。     それはとても具体的で、身近なことです。論争で疲れたので一緒に酒を飲むとか、恋人同士であればスキンシップや性的な接触をもつとか、そういうことです。いっけんそれは言語ゲームと関係ないように思われるかもしれませんが、これもまた一種の訂正の行為です。そしてそのような接触によって、さっきまで続いていた争いがどうでもよくなるということも、またじつによく起きていることです。というよりも、人間関係の調整とは本質的にはそういうものです。はたしてそのような訂正が人工知能に可能でしょうか。


どれだけリモートワークがベースであっても、お互いの認識みたいなものが凝り固まってきたタイミングで、直接会うことには意味がある。訂正する力をお互いに発揮するために、です。

そのためにこそ、逆説的にリモートワークを活用していこうよ!と僕は思います。

なぜなら、場所に縛られなくても仕事ができるわけだから。「訂正が必要ない関係性」はすべてリモートワークを通じて場所を問わず行うことができて、いま本当に訂正する力が必要なところに全振りすることができる。

複数同時の皿回しのようなことが可能となってきているわけです。

冒頭の、リモートワークを仕事に活かそうとしているひとたちは、まさにそれを無意識的に理解し、実践している。

一方で、リモートワークは仕事から離れるためだと思っているひとは、ここを完全に誤解しているか、全く理解していないんじゃないかなあと思います。

つまり、複数の皿回しにおいて加速度を付けるような作業が、仕事では何よりも重要で、それが直接会ったときに生まれる「訂正する力」であり、「じつは……だった」とお互いに発見し合う行為そのものなのじゃないかと、僕は思うのです。

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逆に言うと、これまで僕らは直接会うという行為、その真の価値を対して何も理解をせずに、ただ無駄に浪費していただけだったとも言えそうです。

せっかくの対面でリアルに会うというチャンスや本質的な価値を、訂正が必要ない場面でもダラダラと使い続けてしまっていた。

その結果として、逆にマンネリさえも生んでしまって、お互いの関係性を悪くしている場合さえもあるわけです。

これの本当になんともったいないことか。まさに宝の持ち腐れ、豚に真珠、馬の耳に念仏、です。

直接対面で会って、ちゃんと訂正をしあって、またサッとその場を去る。

そして、次の「訂正する力」が必要な現場へと向かっていく。

そんなふうに定期的に「訂正する力」を用いて、「じつは……だった」という変化を与える行為をまんべんなく行うことによって、真の意味で「変化のない関係性」を構築し続けることができるのだと思います。

皿回しにおいて、よく回っているお皿ほど完全に止まって見えるのように、です。これが本当にいま大事なことだなあと思います。

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自分はつながっていると思っていたものが、実は全くつながっていなかった。

AIが登場すれば、それはより顕著になり、雇用契約自体もサクッと解除されるでしょうし、それは家族のような親密な関係性であっても、全く同じだと思います。

そのうえで、何か関係性を断ち切るという最終決断を相手方になされてしまうと、もはや後戻りは不可能です。

どれだけ後悔しても、そのときにはもう遅い。完全に後の祭りです。

そこに、直接会って訂正する力を発揮する契機をお互いに定期的に持ち続けると、いくらでもそこには「じつは……だった」という再解釈が可能となる。

「訂正する力」は、そんなインタラクティブな対話型のコミュニケーションが取れるような直接対面で会うことによって真の力が発揮されるのではないでしょうか。

だからこそ、繰り返しますが、いま訂正する力を発揮する必要のない段階の仕事はリモートワークの恩恵を、最大限に享受したほうがいい。

なかなかに理解しにくい話だったかもしれないですが、意外と言いたいことはシンプルなので、どうにか今日僕が伝えたかったことが、ちゃんと伝わっていたら嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。