先日、仕事中のちょっとした雑談のなかで「親戚が久しぶりに集まると、なぜカニを食べに行くのか」という話題で盛り上がりました。

僕のそのときの仮説は、「それぞれがカニを食べることに夢中になることで、会話の間を埋められるから」でした。

どうしても、久しぶりに親戚同士で集まると、会話もぎこちなくなってしまいがち。

でも、そのぎこちない会話の中で、たとえちょっとした嫌な沈黙が続いたとしても、みんなが黙々とカニを食べているという前提であれば、その沈黙にも耐えられます。

沈黙に対して全員が納得できる理由が与えられるわけですよね。

だからこそ、わざわざみんなで「カニを食べる」という非日常的な空間を演出する必要があるのではないかと思ったのです。

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この点、いま読んでいる『断片的ものの社会学』という本の中に、膝を打つような表現が書かれていました。

それが「寄せ鍋理論」です。以下、少し引用してみます。

ー引用開始ー

私が冗談半分に「寄せ鍋理論」と名付けている理論がある。たとえば、ひとりの友人に、いまから私と話をしましょう、そのための時間をください、と言ったら、不安になって警戒されるだろう。でも、いまからおいしい鍋を食べませんか、と言えば、ああいいですね、行きましょう、ということになるだろう。

人と話をしたいなと思ったら、話をしましょうとお願いせずに、何か別のことを誘ったほうがよいのだ。考えてみれば奇妙なことである。けっきょく何が目的で鍋を囲むかというと、お互い話をするためである。だったら話だけすればよいではないか。     

しかし、人は、お互いの存在をむき出しにすることが、ほんとうに苦手だ。私たちは、相手の目を見たくないし、自分の目も見られたくない。

私たちは、お互いの目を見ずにすますために、私たちの間に小さな鍋を置いて、そこを見るのである。鍋が間にあるから、私たちは鍋だけを見ていればよく、お互いの目を見ずにすんでいる。鍋がなかったら、お互いに目を見るしかなくなってしまうだろう。私たちはお互いの目を見てしまうと、もう喋ることができなくなって、沈黙するしかない。そして怯えや緊張は、沈黙から生まれるのだ。

ー引用終了ー

鍋に限らず、焼き肉(バーベキュー)なんかもそうだと思います。

そして、カニはその最たる例と言えるのではないでしょうか。

このように考えてくると、「自分がカニを好きかどうかで、その誘いを受けるか否か」を考えること自体がいかに愚かなことだったのか、とても反省しました。

「カニを絶対に食べたい」と思ってその場に集まっているひとなんてまずいない。

それよりも、「話しにくい場面であるとわかっているけれども、なんとかみんなで交流の場を設けたい。だって、親戚であり、家族なのだから。」そんな意思表示であり、話したいことさえないのかもしれません。でも、それに対して応えることは実はとても大事なことだったんだろうなあと。

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最近、この話に限らずに相手が発している言葉の「さらに奥にある欲求」に対して敏感になることって、ものすごく大事なことだと感じています。

それは、本人でさえ気がついていないことだったりする。でも無意識のうちに感じ取っているからこそ、「カニを食べよう」というような誘いになって表現される。

逆に言えば、相手のニーズやコンプレックスなどをうまく察知し、「なんとしても足を運びたい」と思わせてしまう創造力と、場を構築できるひとは本当に強いなとも感じます。

千利休の「茶の湯」なんかは、その最たる例と言えそうです。

茶室に足を運んでもらいさえすれば、狭い部屋の中でカフェインをとった興奮状態の中、非常に密になって話すことができる。そして、そこから武将たちの本音を探ることができる。

そのために茶の湯という場が、武将たちのありとあらゆるコンプレックスを刺激することによって、絶対に足を運びたいと思わせる場所になっていたわけですよね。

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このように、「ゆっくりと対話をしたい」という人間の一番根源にある目的に対して、自然な口実と場を創造できるひとは、いつの時代も本当に強い。

では、果たしてポストコロナ時代の「寄せ鍋」や「カニ」や「茶室」は一体何になるのでしょうか。

そんなことを考えてしまう今日このごろです。

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