人間は、観念の中で「完全な姿」を思い描くことができます。

それは世界に対しても同様で、理想としてのあるべき世界像を明確に思い描けてしまう。

それは、「完全な三角形」なんてこの世界のどこにも存在しないのにも関わらず、人間の観念の中では完全な三角形が思い浮かべられてしまう「三角形のイデア」のような話に近いのかもしれません。

そんな完全性を、各人が頭の中で思い描いているだけならまだいいのですが、それをなんとかして実現しようとしてしまうのが人間の性です。

そして、その思い描いた「完全性」を邪魔しようとする人間を、精神異常者や犯罪者(予備軍)としてレッテルを貼り、ドンドン世間から排除及び隔離してしまう。

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では、そもそも「完全性」というのは、どうやって獲得されていくものなのでしょうか。

もともと複雑怪奇なこの世界に対して、そのアプローチ(過程)が問題となります。

思うに、人間は目の前の事象を分離して、選別して、個別化しながら、細かく分解していく作業を通じて、その「完全性」を獲得するのだと思います。

言い換えれば、二項対立で扱えるところまで落とし込んで「良い部分と悪い部分」を万人に理解できるように、説明し、伝えていく。

ジャーナリストや科学者たちは、それが報道や科学の役割だと思って、日夜真剣に自己の仕事に取り組んでいるわけですよね。

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確かに、そのおかげで世界はここまで発展してきました。それは間違いありません。ここでジャーナリズムや科学が間違っていると言いたいわけでは決してない。

ただ同時に、もっともっと「全体性」にも目を向ける必要があると思うのです。

この点、河合隼雄さんは著書『ユングの生涯』なかで、「完全性と全体性」について以下のように語っています。

ー引用開始ー

われわれが完全性を求めてそれをひとつの理想とするとき、それが実現不可能なものながらわれわれの行為を照らすひとつの灯の役割をしていることを知っている場合は、あまり問題でないかも知れない。

しかし、それを到達可能な目標であると思い誤ると、その理想はわれわれを励ますよりはむしろ苦しめることの方が多いように思われる。われわれとしてはただ自分の到らなさを恥じるばかりで、遂には自己嫌悪や自己否定にまでおよんでしまう。

    完全性は欠点を排除することによって達成されると考えられるが、全体性はむしろ欠点を受け容れることによって、そこに生じる統合を目標としようとする。

ー引用終了ー

個人にも、世界にも、必ず影の部分は存在します。

中国の老荘思想や日本で育まれた禅などの東洋思想は、いつもその「全体性」に対してしっかりと目を向けてきました。

そして、その世界観がわかりにくかったり、居心地が悪かったりすることは、ある種の必然なのだとも思います。

でもこの気持ち悪さ(広義の「他者」)を受け入れていくことをしなければ、いつまで経っても観念の中に存在する幻想のもと、そもそも実現不可能な「完全性」を追い求めて行動してしまう。

そして、その幻想を達成するためならば、多少の犠牲がともなっても仕方がないという論理のもとに、さらに隔離や排除が暴力的に行われていく。

それは、世界各地で実験されてきた社会主義諸国が散々失敗してきた道であり、いまも西欧諸国ではその論理に従って実際に戦争が起きてしまっています。

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もっともっと、影も含めた全体性にも目を向けていきたい。

観念の中の完全性を求めて、原型をとどめていない整形し尽くした「顔」は、果たして本人の顔といえるのでしょうか。

そんなことを考える今日この頃です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。

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