私たちは、幼いころから「努力と忍耐が美徳である」と教わって生きてきました。

しかし、それは本来とっても辛いこと。

だからこそ、今のいる自分の置かれている状況を肯定してくれるフィクションや物語を国民的作品に仕立て上げ、それを共同幻想とし、自分たちの行動を正当化してきました。

ただ、そうやってなんとか必死で世間が求める努力と忍耐を繰り返してみても、なぜか報われない世の中が近年ずっと続いてしまっている。

「これは何かがおかしい。このままでいいのだろうか…」そんな漠然とした不安や恐れが襲ってきているのが現代だと思います?

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そんな状況を逆手に取るかのように、努力と忍耐を捨て去り傍若無人に振る舞うひとたちも一定数現れてくる。

「努力と忍耐を強いられている私たちは疎外されているのだ」と騒ぎ立てて、「そこから解放されよう!」と。

でも、大抵の場合、そんな彼らのイデオロギーは「本当の自分」や「ピュアな私」を勝手に捏造し、それを錦の御旗のように掲げつつ、「疎外されている私たちは何をしてもいいのだ」と振り切って原理主義へと陥ってしまう。

その結果、好き勝手に他者に暴力を振るってみたり(言葉の暴力も含む)、完全に自分達の世界に引きこもってみたりして、努力と忍耐の真逆にある行動を取ることを全肯定してしまいます。

そうすると、社会はより一層荒れ果てて、以前よりもさらに住みにくい世の中が完成してしまう。

歴史は何度もこの過程を繰り返してきました。

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じゃあ、私たちは一体どうすればいいのでしょうか。

この点僕は、努力と忍耐の道ではなく、ひとりひとりが「工夫」し「勇気」を持つ道を選ぶべきなのではないかと思います。

そもそも「なぜ私たちが工夫や勇気の道を選ばないのか?」といえば、その道を選択してしまったら、自分の人生に踏み出さなければいけなくなり、それが怖いからです。

自分で毎回決断しなければいけないそんな不安定な道を選ぶぐらいなら、今の場所に留まっていられるように、自ら進んで努力と忍耐を選び取り、世間が求める「理想」に邁進する道を選択したほうがいいと考えてしまうのだと思います。

そして、その「理想」を追い求めるなかで生まれてくる抑圧や重圧から、解放してくれる強いリーダーを待ち望んでしまう。

彼(彼女)のあとについていけば、このやり場のないストレスを「ガス抜き」をさせてくれるというような強いリーダーを。

でもそれが非常に危うい期待であることは前述した通りです。

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ひとりひとりがそれぞれに工夫し、勇気を持つ世界には何か明確なハウツーがあるわけではありません。

各人の置かれている状況によって、選択すべき行動は全く異なるはずです。

その結果、完全に矛盾することだってあるでしょう。それは他者の事例との間だけでなく、自分の中でも頻繁に起こるはず。

原理主義を掲げるひとたちからは、その一貫性のなさを強く批判されるはずです。

彼らの大きな声に圧倒されて、次第に自信もなくなってきて耳を塞ぎたくなってくる…。

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でも、ひとつ確実に言えることは、どんな場合であっても、しっかりとまわりの声に耳を傾けて「聴く」ことだと思います。

聴いた先にしか「工夫」する方法は見えてこないのだから。

聴く対象は、目の前にいる相手だけに限らず、社会の声や他者の声、歴史上の先人たちの声や、まだ生まれてきてさえいないひとたちの声も含みます。

もちろん、自分自身の中にいる「内なる他者」の声もそうかもしれません。自然の中に存在する「声にならない声」にも全力で耳を澄ませてみる。

ときどき、「聴くことの重要性」が批判されることもありますが、それは「目の前の相手の声を聴くことが正義だ」という原理主義に陥ってしまうひとたちがいるからであり、それはそれでひとつの視点しか持ち合わせていないことになります。

もっと多面的、重層的に聴いてみる。

そうすると、自分の中に自然と立ちあらわれてくる工夫のタネを発見することができる。

あとはそのタネを育ててみようと選び取る勇気を持てるかどうかです。

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「タネから芽が出るかどうかもわからない」それでもそのタネを育てると決意した者だけが、本当の意味で工夫と勇気の道を歩めるのだと思います。

昨夜、Wasei Salon内で開催された河合隼雄著『こころの処方箋』の読書会イベントを通して、そんなことを考えました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの考えるきっかけになったら幸いです。