以前、「うしろめたさの効用」というブログを書いたことがあります。
うしろめたさを極力排除していくことは、この時代にものすごく大切なことだと思いますが、その「自分の中の正義にあぐらをかかないこと」も同時にものすごく大切だなと思って書いた記事です。
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では、なぜひとは自分の中の正義にあぐらをかくようになるのでしょうか?
言い換えれば、その慢心は一体どこから生まれてくるのか。
この点、内田樹さんがおっしゃっていたことがとても参考になるなあと思ったので、以下で少しご紹介してみたいと思います。
ー引用開始ー
インタビュアー:私はそういう、正義の名のもとに、ということを信じ切って攻撃的になる人を見ると、ああいやだな、と思う反面、なぜこの人はこういうふうに信じられるものを持てるようになったのか、なぜこういうふうにならなくてはいけなかったのだろう? といつも思ってしまうんです。
内田樹:不安だからじゃないですか。 いまの若い人は余裕がなくて、アグレッシヴな人が多いでしょう。それは基本的に傷つきやすい、センシティヴで、ナイーヴで、本質的に善良な私、というものがあって、それを最終的な自分の根拠にしているから。そこから出発してくるから、それを守るために、やわらかくて、やさしくて、美しい自分を守るためにだったら、いくらでも針をだしていく。 自分を悪い人だと思っていたら、なかなか人にむかって攻撃的になることはできません。 人というのは、守り抜かなくてはならない壊れやすいものを抱えていると、非常に攻撃的になりますよね。たとえば、子供を守る母ライオンのように。
引用元:期間限定の思想「おじさん」的思考2 (角川文庫)
ー引用終了ー
つまり、「自分の中の正義にあぐらをかく」その態度の根拠は、「センシティブで、ナイーブな私」だったということです。
うしろめたさを感じる「行為」を自分の中から排除していくことは、確かに尊いことです。でも、そのうしろめたさを感じる「自分」までは拭い去ってはいけない。
なぜなら、その「うしろめたさ」を感じる「自分」まで拭い去ってしまうと、手が真っ白で純白な弱い私が、自分の中に必ず立ち上がってきてしまうから。
そんな弱い私を守るためなら、相手に対してどれだけ攻撃的になってもいいと信じ込んでしまいます。
だって、そんな私の視点(角度)から眺めたら、世間の人々はみんな手が真っ黒で、努力を怠っている人間に見えてきますからね。
そんな野蛮なひとに対しては、いくらでも先鋭化しても良いという答えを自分の中で採用してしまう。
この判断が本当に危ういことだなあと。
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二律背反だと思える信念、そのふたつのベクトルを同時に自分の中で採用することがいまとっても大切なことなのだと思います。(論理矛盾甚だしいですが)
きっと、その矛盾を受け入れることが「大人」になるということでもあるのでしょう。
そして、この矛盾を自分の中で採用すると決意した瞬間、目の前の出来事に対して「原理原則」を当てはめて判断することはできないのだと自覚できるようになるはずです。
それぞれの事象ごとに、都度都度判断する必要が出てきて非常に面倒くさいことも悟るでしょう。
言い換えれば、どんな状況下であっても「いつも同じ服を着て、いつも同じような仏頂面をして、いつも同じような返事をする」という態度はもう許されなくなる。
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いま世間で持て囃されている「自分らしく生きる」や「自由に振る舞う」というのは、そんな「自分」のうしろめたさから目を背けた結果でもあるのだと思います。
それは、日本の高度経済成長を支えてきた「行為」のうしろめたさを無視してトコトン突き詰めてきた世代と、本質的には何も変わらない。
全く別のベクトルであっても、一つのイデオロギーに染まってしまっている態度で言えば同じことですから。
だからこそ、自分の中にこの二律背反の矛盾を採用し、スッキリとしない「居心地の悪さ」や「うしろめたさ」を積極的に受け入れていく覚悟が、今とても大切なことだと思います。
2021/10/25 11:13