昨日の記事では、AIによって「20年の夢が20分で叶う」という話をきっかけに、僕らが夢に何を求めていたのかを考えてみました。

参照:AIの進化による「夢の即死問題」に思うこと。

軽く前編を振り返っておくと、完成した作品や、目に見える成果、その奥にこそ、自分でも十分に言葉にできていなかった願いがあったのではないか。

それが、神話学者・ジョーゼフ・キャンベルのいう「いま生きているという経験」であり、誰かと本気で関わるなかで生まれる「真の共同性」でもあったのではないか。

そのような経験を生きる物語にこそ、僕らは価値を感じていたのだと思うというような内容が前編です。

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ただ、前編の最後にも書いたように、ここには、もうひとつ厄介な問題があるなと。

それなら、本当に好きなことを見つけて、それを一緒に追いかける仲間さえいればいいのではないか、と。

僕も、そう言い切れたらどれだけいいだろうと思います。

でも、現代は、その「好きになる」ということに対してさえ少し警戒するようになっているのです。

今日は、その理由を考えながら、前編で触れた神話の話、そして以前から何度かご紹介している、村上春樹さんの「善き物語」という言葉について、より一層腑に落ちるなと思い始めてきたので、そんな話を書いてみたいと思います。

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で、この点、東畑開人さんが、先日Xでこんなことを書かれていました。


この感覚は、とてもよくわかります。

そして、それは確かに、心が動き始めたようにも見える。

ただ、僕はこの投稿を読みながら、推し活やAIがこれほど身近になる前までなら、この話ももっと素直に納得できたのだけれど、今は同時に信じられなくなってしまっているなと思ったのです。

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現代は、スマホをダラダラ眺めていたら、いつの間にか何かを好きになっていた、があり得る時代。

このとき、本人の感覚としては、確かに「好き」なのだと思います。

でも、その好きは、一体どこから来たのだろう…?と。

自分の心が独自に動き始めたのか。それとも、心が動き続けるようにつくられた「推し活」やドパガキの中毒性の高い仕組みのなかに、自分が取り込まれているだけなのか、そこはなかなかに曖昧ですよね。

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僕はこのことを、Xでは「薬物を好きになった」という話に近いのではないか、と書きました。

ここで気になっているのは、好きだと感じていることと、自分の意思でその対象に関われていることが、必ずしも一致しないという点なんです。

好きだからこそ関わっているつもりなのに、そこから距離を取ることができなくなっているような状態。

この違いを、好きの強さだけで見分けることは、ほんとうにむずかしいなと思います。

アルコールのような身近な薬物的な依存でさえ、傍から見れば、何かを好きになって夢中になっている姿に見えてしまいますからね。

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前編で紹介した「夢の即死問題」のpajiさんの投稿は、その後、AIによって能力の差が縮まるほど、情熱や執着の差がむき出しになる、という話へ進んでいました。

100本のゲームを作れることよりも、101本目をどうしても作りたくなること。

確かに、それはAI時代にものすごく大切な姿勢なのだと思います。

ただ、その「どうしても作りたくなる」も、いまはもう無条件には信じられない。

誰かに言われなくても続けてしまうという事実だけでは、そのひとの内側で何が起きているのかまではわからないわけですから。

AIによって夢を形にできるようになったあと、「じゃあ本当に好きなことをやろう!」と言っただけでは、話が終わらない。

むしろ、その先にこそ、非常に現代的な、もうひとつ大きな落とし穴があるように感じています。

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あと、さらに厄介なことは、そこにもちゃんと「共同性」までが生まれていることです。

たとえば「自分の推しを、なんとしてでも一位にしたい」という目的がある。

それを一緒に応援する推し活仲間がいて、励まし合い、結果に一喜一憂し、うまくいけばみんなで喜ぶ環境が生まれてくる。

その経験によって日々に張り合いが生まれたひともいるでしょうし、そこで出会った仲間が、本当に大切な存在になることもあるはずです。

だから、その喜びを外から断定的に否定することもできない。

共同性が生まれているからこそ、その仕組みから離れられないということが起こり、朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』はまさに、その残酷さをまざまざと描いていたわけです。

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そして、ここまで考えたときに、僕は改めて、村上春樹さんの「善き物語」という言葉を思い出しました。

人間には物語が必要だ。

そのことには、僕も強く同意します。

だからこそ、「どんな物語でもいい」とは言えないんだ、と。

村上さんが「善き物語」という言葉で語ることの意味が、いま、僕には以前にも増して、切実に感じられるのです。

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この点、今から約2年半前、2024年5月に、「コミュニティは『善き物語』を語り合う洞窟のような場所。」というブログを書きました。

参照:コミュニティは「善き物語」を語り合う洞窟のような場所。 

村上春樹さんと川上未映子さんの対談本『みみずくは黄昏に飛びたつ』を読んで、考えたことを書いた記事です。

この本の中で、村上さんは、物語の善性の根拠について、こんなふうに語っています。

そういう物語の「善性」の根拠は何かというと、要するに歴史の重みなんです。


そして、何万年も前から人が洞窟の中で語り継いできた物語や神話が、今の僕らのなかにも継続している。そのことが「善き物語」の土壌になっている、と。

僕は、この観点をとても大切にしたいなと思っています。

自分が生まれるよりも、はるか前から語られてきた物語がある。自分がいなくなったあとにも、誰かがそれを語るかもしれない。その長い連綿と引き継がれてきた連なりのなかに、自分自身もいること。

前編で、いま『オデュッセイア』が世界的に大きな反響を呼んでいることも示唆深いと書きましたが、まさにそこにもつながるような話です。

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AIによって夢の形が次々と手に入る時代に、なぜ、はるか昔から語り継がれてきた神話に対して、僕らはこんなにも心が動くのだろう、と。

その理由のひとつは、こうした物語が、自分の目の前の願望を超えたところで、「人間が生きる」という経験にちゃんと触れさせてくれるからなのではないかと思います。

自分が抱えている願いや葛藤も、人類が長く語り続けてきたもののなかに、ちゃんとつながっている感覚。

僕らが夢に託していた「いま生きているという経験」と、村上さんのいう「歴史の重み」は、ここで見事に重なってくるように感じます。

神話は、そんな共鳴のための通路を、長く持ち続けてきたのかもしれない。

そして、AIがつくる物語には、そんな「歴史の重み」や「時間の積み重ね」は作り出すことができない。

物語の形をつくることはできても、その物語を誰かが生き、次の誰かに語り継いできたという過去まで、あとから捏造してつくることは決してできないわけです。

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もちろん、古い物語なら何でも善い、と簡単に決められる話ではありません。

ただ、長く語り継がれてきた物語に触れることは、自分の感じ方だけを唯一の基準にしないための、大切な手がかりにはなると思います。

その物語を読んだ他のひとは、自分とはまったく違うところに心を動かされているかもしれないし、そういうものに触れながら、自分が何を求め、何を見落としているのかを、少しずつ知っていくというその過程、それこそが重要なんだろうなあと。

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僕が、仕組まれた推し活やドパガキ的なものが「悪しき物語」になりやすいのではないかと思うのは、その力によって、人が閉じ込められてしまう可能性があるからです。

「ここにいれば、あなたの求めているものは全部ある」

そんなふうに感じられる場所から、わざわざ外へ出ることは、ほんとうにむずかしい。

外へ出れば、自分を理解してくれないひと(他者)もいるし、思いどおりにならないことも様々に起こるのだから。

でも、その外側に触れなくなったとき、僕らの物語は静かに、でも着実に濁り、歪んでいく。

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外に出れば、必ずうまくいかないことがある。身体的にも、精神的にも傷を負うことは必定です。

反対に、思いがけない親切に助けられることなんかもありますよね。

そうやって現実を生きて、帰ってきて、そこで体験した話を、洞窟の中ですること。

聞いてくれるひとがいて、自分とは違う経験を語ってくれるひとがいる喜びです。

そのやり取りのなかで、自分が経験したことの意味が、また少しずつかわっていく、だからこそ、また危険な外に出てみようと思えることもある。そのときに「神話」がものすごく役に立つ。

ここには、うまく言えないけれど、とても大切なものがあるように思います。

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「善き物語」は、そういう連綿とつづいてきた人間同士のあいだにも、生まれてくるのではないでしょうか。

逆に言えば、「善き物語」か「悪しき物語」かを見分ける方法は存在しないことが、現代のいちばんの生きづらさでもあるわけです。

そこの明確な定義や答えはない。まさに「君たちはどう生きるか」だけが、問われている。

僕が以前の記事で、物語には「語り部」が必要なのだと書いたのは、こういうことだったのだと思います。

AIが物語の形をつくれるようになるほど、誰がそれを語り、誰が聞き、その先でどんな関わりが生まれるのかが、ますます大切になってくる。

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もちろん、これで昨日の記事に書いた「目的性と共同性」の矛盾が、すべて解けたわけではないと思います。

ただ、考えていくうちに、夢に託していた「いま生きているという経験」、目的性と「真の共同性」をめぐる矛盾、そして神話や「善き物語」の話まで、ひとつの筋でつながっていった感覚が強くあります。

僕にとってこれらは、以前からブログやVoicyで繰り返し語ってきた、とても大切なことです。

それが今、AIの進化によって、以前よりも具体的に感じられるようになってきたのは、ほんとうに怪我の功名的な話だなと思っています。

AIが進化してくれなかったら、きっとそのままこんなにも大切なことに気づかず、そのまま生きて、そのまま死んでいたはずですから。たった一度しかない貴重な人生を、です。

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AIによって形が手に入りやすくなったからこそ、その形だけでは満たされないものが見えてくるし、その満たされなさを埋めてくれるように見えるものも、次々と差し出されてくるのが現代。

そのなかで、自分が何に本当に心を動かされ、誰と、どんな物語を生きていくのか。

僕は、そのことを、これからもこのコミュニティを通して、他者と語り合いながら考えていきたいなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。