最近、連日のようにご紹介していた村上春樹さんと川上未映子さんの対談本『みみずくは黄昏に飛びたつ』をやっとすべて読み終えました。
この本の後半部分で語られていた「善き物語」のお話がとってもおもしろかった。
「善き物語は、はるか昔の洞窟の中につながっている」という内容です。
一見するとよくわからない話だと思うので、今日はこの話をご紹介しつつ、ここで語られる「洞窟」というのが、まさしく現代における「コミュニティ」の文脈なのではないか、という自分なりの仮説について少し考えてみたいなと思います。
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さて現代は、「物語」の重要性が日に日に増してきているなあと個人的には思っています。
というか、物語しか今のような世の中に抗い、対抗するための手段がないのではないかとさえ思いはじめている。
だからこんなにも、自分自身が物語という形式というか語り口に、見事にハマっているんだろうなとも感じています。
じゃあ、それは一体なぜなのか。
ずっと、うまい言語化が見つからず、だましだまし長編小説を直感のままに読み続けてきたのだけれども、その理由がこの本を読んでなんとなく掴めてきたのです。
本書の中で「善き物語、その善性の根拠とは、歴史の重みがあるから」というお話が語られてあって、それが非常におもしろかったですし、この問の答えでもあると思うので早速本書から少しだけ引用してみようと思います。
村上 そういう物語の「善性」の根拠は何かというと、要するに歴史の重みなんです。もう何万年も前から人が洞窟の中で語り継いできた物語、神話、そういうものが僕らの中にいまだに継続してあるわけです。それが「善き物語」の土壌であり、基盤であり、健全な重みになっている。僕らは、それを頼し信用しなくちゃいけない。
それは長い長い時間を耐えうる強さと重みを持った物語です。それは遥か昔の洞窟の中にまでしっかり繋がっています。
川上 神話や歴史の重みそれ自体が無効になっているとは思われませんか、村上さん。それらが保証する善性のようなもの、それ自体が。
村上 全然なってない。
川上 まだ始まってもいないぐらいな感じでしょうか?
村上 というか、現実的に今までずっと続いてきたんだもの、途切れずに。人類の歴史のなかで、物語の系譜が途切れたことはありません。僕の知る限り、ただの一度もない。
この観点は、本当にすばらしい観点だなあと思います。心の底からそのとおりだなと感じます。
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小説は読まれなくなって、テクノロジーの進化とともに、どんどん軽薄短小なコンテンツに人々は流れていってしまっている。
でも、物語は今も変わらずに、人々に求められてもいる。アニメや漫画なんかは非常にわかりやすいところですよね。
そして、テクノロジーの進化が激しくなればなるほど、逆説的なんですが、人々はお互いの「善き物語」を求め合うようにもなると思うのです。
なぜなら、情報が瞬時に手に入るようになった一方で、人々は「深いつながり」を求めることにもなるから。
ここは逆説的なので少しわかりにくいかもしれないので丁寧に説明したいのですが、そこだけがポッカリと空いた穴のようになり、自分の中で目立つものになっていくのは間違いない。生成AI時代なら、なおさらのことです。
短いコンテンツでは満たされない、心の深い部分を満たすために「善き物語」が必要。短いコンテンツに触れ続ければ触れ続けるほど、その欠落感の輪郭がはっきりして際立ってくるはずなんです。
つまり、人々は変わらないもの、普遍的なものをより一層求めるようになっていくはだというのが、僕の今の仮説です。
そこにこそ、強い渇望感を感じていくようになる。きっとまだ多くの人々は、それが物語によって満たされる欠乏感だとさえ、思っていないはずです。
「善き物語」は、歴史的に長く語り継がれてきたものであり、人々に安心感と一貫性を深く提供してきたはずで、深い部分での共感やつながりをずっと生み出してきたわけですから。
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この点、本書の中では、人々が本を焼いて歴史を抹消しようとするあの有名な物語、レイ・ブラッドベリの名著『華氏451度』の話をご紹介しつつ、村上春樹さんは、フェイスブックやツイッターの歴史の短さと対比して「善き物語の力強さ」についても語ってくれています。
以下で再び本書から引用してみたいと思います。
村上 どれだけ本を焼いても、作家を埋めて殺しても、書物を読む人を残らず刑務所に送っても、教育システムを潰して子供に字を教えなくても、人は森の奥にこもって物語を語り継ぐんです。それが善き物語でさえあれば。
たとえ紙がなくなっても、人は語り継ぐ。フェイスブックとかツイッターとかの歴史なんて、まだ十年も経ってないわけじゃないですか。それに比べれば、物語はたぶん四万年も五万年もいているんだもの。蓄積が全然違います。恐れることは何もない。物語はそう簡単にはくたばらない。僕はまだまだ自分の物語を大きな声で語り続けたいと思います。もしよかったら僕の洞窟に寄ってみてください。焚火の炎もしっかり燃えています。
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僕は、ここを読みながら、「あー、これだ!」って思いました。
村上春樹さんは、物語が語られているとき、そのような原始の人々が洞窟の中で語っている様子につながっていると、本書の中で、何度も繰り返し強調して語ってくれているんですよね。
真夜中に、洞窟の外は真っ暗で、様々な危険が一杯の状態。洞窟の暗がりの中で焚き火をしながら、みんなで寄り添い合って過ごしていたはずであり、その中ではきっと物語を語り合っていたはずだ、と。
これが神話の起源でもあるなあと思います。
そのときに、小説家のような自分はきっと物語を語る役割だったと思う、というような趣旨のことを語られていました。
その原初の体験のようなもの、当時の洞窟とつながる機能をもたらすものが「善き物語」を経由した体験なのであると。
このニュアンスは、とてもわかりやすい話だなと感じます。
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もちろん、安全だからという理由で、ずっと洞窟の中に居着いてはいけない。それだとプラトンの「洞窟の比喩」のようになってしまう。
日中の明るい時間帯にはちゃんと洞窟の外に出る。そしてまた夜になったら洞窟に、戻って来る。
それが僕が何度も過去に語ってきた「行って参ります」と「おかえりなさい」という空間のイメージでもあるのです。
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さらに、誤解を恐れずに言えば、その洞窟のなかで語られる物語というのは虚実が入り混じっていても、全くもって構わないとも思うのです。
必ずしも真実や「リアル」である必要はなくて、そのひとが「本当のリアリティ」として感じた話であれば、語られるに値するし、聞くに値する話でもあると僕は思う。
広く一般的に公にされる文章であれば、虚実入り交じると危ういこともあるかもしれないけれど、洞窟の中はむしろ、お互いに「善き物語」を語り合うことにこそ意味がある。
なぜかと聞かれても、その理由はわからない。
ただ、その根拠としては、人類はそれを何万年もやってきたのだから、というのは十分にその根拠になりえると思うのです。
そこには、ソレを交換し合う必然性や、途切れることなく人類がそれを求めてきたと歴史の重みや信頼性があるわけですからね。
そこに、どんな意味があるかはわからくても一向に構わないと思っています。
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そして、現代の脅威となってきている生成AIには、物語をつくることができても、それを本心から語ることはできないはずなのです。
集合的無意識のようなもの、「身体性としての真善美」と人々が本当の意味でつながるとき、その時に初めてそれは「ただの物語」から「善き物語」というある種の「善性」を帯びるような気がしています。
それは「魂」や「ゴースト」が根底に存在するという言い方をしてもいいのかもしれない。
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逆の視点から眺めてみると、物語は必ず生身の人間としての「語り部」が必要とされるということでもあるのでしょうね。
自分ごとになっていること、そのひと自体が自己を超越した「何か」とちゃんとつながっていること。その水道管や通路のような存在になれるのは人間だけ。
もちろん、それを聞く生身の人間の存在も同じぐらい重要になる。その人間同士の間やあわいに生成されてくるのが、「善き物語」だとも思う。
そして、そのようなやり取りでしか感じ取ることができないような、かけがえのない大事なものに出会えるようになっている。
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今日語ってきた内容が、きっとコミュニティの中で「善き物語」が語り合われるべき理由でもあるのだと思います。ひとりひとりの手触り感のある実体験として。
まとめると「善き物語」を語り合うことが、もしかしたらコミュニティにおいて一番大事で必要なことなのかもしれません。
長編小説が全然読まれなくなったと言われる昨今ですが、ゆえに長い長い物語を今こそしっかりと大切にしながら、お互いに共有していきたい。
それがきっとTwitterやFacebook、YouTubeなど表の世界で語られる「イズム」や「イデオロギー」を超えられる、唯一の方法のような気がしています。
Wasei Salonの中で今週開催される遠藤周作の長編小説『沈黙』の読書会なんかも、まさにそのきかっけのひとつ。
コミュニティと善き物語の関係性に対して、またひとつ解像度が高まったような気がするので、今日のブログにも書き残しておきました。
いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにも今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
(ブログ読ませたあとに、ChatGPT-4oが描いてくれた画像。まだまだAI感あるけれど、どんどん微妙なニュアンスの再現がうまくなってきているなと思う)