先日、サロン内で公開した文章の反応がとても良かったので、外部向けにも公開しておきたいと思います。

日々、こんな気づきや発見をサロン内の限定公開タイムラインで更新しているよ!ということも、合わせて伝わると嬉しいです。

それでは、以下限定公開していた内容です。

ー引用開始ー

2日ほど前、誕生日を迎えました。

この歳になると、歳を重ねることに対して特にこれといった感情も湧かなくなり、また一つ歳を重ねたという実感だけが淡々と積み重なっていきます。

ただ、それぐらいの感覚になると、これまでとは異なり、自己の誕生日というものを客観的に見られるようになりました。

そこで、今年しみじみと感じたのは「誕生日とは、相手の存在価値を祝う行事だったんだ」ということです。

よく、誕生日のメッセージを伝えると「自分は何も祝われるようなことをしていない」と返してくる偏屈なタイプのひとがいますよね。

自分も、結構そんなタイプの人間だったのですが、それこそが現代の価値観による呪いだったのかもしれないなあと今は思うのです。

彼らの言い分はつまり、「自分の努力がそこに何も介在していない(私には讃えられるような生産価値はない)のだから、私が祝われるのはおかしい。今日は、私のことを頑張って産んでくれた母親のことを褒めるほうが正しい」という論拠だったりします。

このロジックを聞かされると、現代に生きている私たちは、なんとなく納得してしまいそうになる。

しかし、何も努力していないからこそ、誕生日を祝うのだと思います。

この本人が何も努力していない(生産していない)日をあえて取り上げて祝うからこそ、そこに「ただ生まれてきてくれてありがとう、今日も生きていてくれてありがとう」といったメッセージになりうる。

(先日書いた以下のブログの「無駄な行為だからこそ、それが相手への敬意だというメッセージとして伝わる」という話にも近い)

参照記事:

そう考えると、誕生日を祝うという文化は他者を尊重し、存在価値を認めるという意味でも、とても素晴らしい儀式なのかもしれないなと。

この歳になってやっと気づけました。

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ー引用終了ー

限定公開範囲は、以上となります。


ここで言いたかったことは大きく分けてふたつ。

ひとつは「努力した人間だけが他者に何かを祝われる価値があるのだ」という誤った価値観に私たちは無意識のうちに染まってしまっている。

そしてもうひとつは、誕生日だけが唯一、人間の存在価値だけを無条件に祝える日であるということ。(それ以外の記念日を祝う行為は、必ず本人の何かしらの努力を褒める要素が介在してしまう)

この2つの気づきは、自分にとってものすごくハッとする気づきだったので、改めてこのブログにも転載しておきました。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

そして、普段こんなことを積極的にサロン内で書いていたりするので、興味がある方はぜひWasei Salonにも参加してみてもらえると嬉しいです。

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