最近よく思うのですが、いまは完全なる情報氾濫時代だからこそ、もう「本」だけ読んでおけば良い時代になったな、と思います。

知るべきネットの情報は、自分からディグりにいかなくても、アルゴリズムの最適化によって勝手に流れてくるようになった。

それ以外のネットの情報は、どうせ誰も知らない。つまり、大半は知っていてもいなくても人生にはほとんど影響もしない、些末なことなんですよね。

僕の場合はオーディオブックが主流ですが、本と、良質なテレビ番組を少しだけ。

そこに定期的に映画館に足を運ぶ習慣を含めれば事足りるし、情報の洪水に流されずに済むようにもなる。

世界は不思議と10年前よりもシンプルになっていて、「振り出し」に戻っているようにも思える。

もちろん、くだらないネットニュースやショート動画ばかりを眺めてしまう人が多いからこそ、ここがそのまま「差別化」にもなる。

では、そんな時代に僕らはこれから何をもっと大事にしていけばいいのか、今日はそんなお話をこのブログにも書いてみたいなと思います。

それでも「学べない」の正体は、孤独とさみしさだ

AIを含めて、何か新しいことを教えてくれる教材はもう山ほどあります。

学ぶためのツールは、もはや「完全に出揃った」と言っていいと思います。

そして今日のChatGPTの5.1のアップデートのように、これからも「学び」の個別最適化は、どんどん勝手に進んでいくはずです。

これは完全に余談ですが、この5.1のアップデートで「もう少し先だ」と思っていた未来が、突然やってきた。

そして、これから起きる「AI格差」とは何なのか、その輪郭がようやく見えてきた気がします。この話は、また別の記事でしっかり書きたいと思っています。

ともあれ、学ぶための情報は、もう本当に無限に存在している。

それでもなお、 「学べないんだよ……!学ぶ意欲が湧いてこないんだ!」という声は、頻繁に耳にする。

その一番根っこにあるのは、学ぶためのツールや知識ではなくて、やっぱり「孤独」と「さみしさ」なんだと、僕は思うんですよね。

言い換えると、共に学びたいと思える仲間がいない。

僕はそこを、少しでも解決していきたい。

だからこそ、これからは「学ぶための情報」よりも、安心して集い合い、学び合い、実践し合える空間のほうが、ずっと大切になってくるんじゃないかと感じています。

「前向きで一緒にいて楽しい人」が集まる文化

じゃあ、そんな場を支える「空気」や「文化」は、一体どうやって生まれてくるのか。

少し話が飛ぶようですが、AI第一人者の深津貴之さんのこのポストに、僕はとても共感しました。


ざっくり抜き出すと 「前向きで積極的で素直で、一緒に働いていて楽しい」とお互いが主観的に感じ合えるかどうかが、これからの会社にとっていちばんの資産になっていく、というような話です。

逆に言えば、そういう人が集まるコミュニティや共同体は、そのまま会社のような事業体にもなりうるし、一緒に仕事をする土台にもなりうるということでもあります。

ここで大事なのは、「スキル」や「スペック」ではなく、その共同体の成員たちがお互いをどう“感じているか”という主観のほうなんですよね。

特に「一緒に働いていて楽しい」とか、「このひとと一緒に学びたい」とか、そういった感覚。

それは家族的な類似性というか、「同じ屋根の下で暮らしている感じ」に近くて、お互いを「同士」だと思えることなんかに近い。

だから、コミュニティ運営や会社経営において、これから本当に耕すべきなのは、 その場に醸成されていく文化観 =「この人たちと一緒にいたい」と自然に思える空気感なんじゃないかと思うのです。

 民藝的な「拙さ」と、人間的なユレの価値

そして、こうした文化を支えるものとして、僕がいちばん大事だと思っていること、それが人間が生み出す「拙さ」です。民藝的なユレ、と言い換えてもいいかもしれません。

それはつまり、「人間的な葛藤」そのものでもある。

民藝的なブログをお互いに書いたり、読んだりこと。そこにあるちょっとしたズレやユレのほうにこそ、じわじわと価値が芽生えはじめている感覚が強くある。

じゃあ、なぜそんな変化が起きているのかといえば、やっぱりAIの登場によって、僕らの認知が完全に変わってしまったからだと思うんですよね。

かつては「どれだけ正しいか」「どれだけ合理的か」が重要視されていた。でも、今の僕らが深く共感してしまうのはむしろ「そうは言っても、感情的に落ち着かないんだよ…!」という葛藤のほうです。

逆に言えば、正しさや合理性だけではスパッと割り切る態度にはもう以前ほど惹かれなくなっている。これは、単なる「悩み」や愚痴とも少し異なる。

むしろ以前書いたような「損切り」と「訂正可能性」の話に近くて、自分がこれまで大切にしてきた「古い物語」を終わらせて、そこから再出発しようともがくときの、そのもがきそのものです。


そのもがいている葛藤こそが、じつはお互いの「学びたい」「一緒に考えたい」という意欲を一番かき立ててくれるのだと思います。

なぜなら、そこに相手の「物語」が見出されるから。物語って基本的には、そういう構造なんだな、と最近になってようやく腑に落ちてきました。

捏造されたナラティブじゃなく、再出発の葛藤そのものが物語だ

だとすれば、僕はみなさんにも、目一杯葛藤していてほしいなと思います。

そうすれば、物語は勝手にそこに立ち上がってくるわけだから。

必要なのは、「物語をつくること」ではなく、「再出発しようとしているその瞬間」を、長い時間をかけて共に見守り合うこと。

逆に言えば、人から好かれるための「物語」なんて、わざわざ捏造する必要はまったくないんですよね。

マーケティング文脈で、ナラティブだのストーリーテリングだの、いろいろ言われてきましたが、あれを真に受けて「わかりやすい物語」を組み立てようとすると、結局みんな同じ構造になっていく。テンプレ化していく。

そうではなくて、真剣に、真面目に、葛藤し続けている状態そのものが大事で、その試行錯誤を横で見守り合う、それだけでいい。

懸命により良くしていこうともがいている、その姿、その背中こそが、いちばんの物語になるわけですから。

そうやって時間が経つにつれて、気づけば自然と、お互いが「特別な相手」「余人をもって代えがたい存在」になっていくのだと僕は思います。

超人的なヒーローじゃなく、「ケの物語」への敬意

この時、僕らに必要なのは、大谷翔平選手やホリエモンのような「超人的な物語」では決してない。

むしろ、日常に近ければ近いほど、僕らはそこに「ハレとケ」のうちの、「ケの物語」を見出していくはずなんです。そんな「ケの物語」にこそ、徐々に深い敬意を抱くようになっていく。

そうなってくると、意識して「相手のことを気にかけなきゃ!」と思わなくても、気づけば自然と、その人の関心事に関心を寄せている自分がいる。「〜ねばならない」という矯正や義務感ではなく、本当に自然に、です。

これは、今のSNSとAIの時代の中で、僕らの認知が変わってきた結果だとも思います。

現代は、「何をやったか」という物語ばかりが注目を浴びがち。派手な実績やバズったエピソードばかりが可視化される。

でも実際には、そうじゃない。僕らはむしろ「起きなかったこと」のほうに価値を置いている気がします。

何も大事件は起きていないけれど、淡々と生活が続いていく。そのなかで、確かに何かが育っていく。

日本の「何も起きない映画」が世界で好まれていたり、若い世代にもPodcastが流行っているのも、このあたりに理由があるんじゃないかと思います。

まさにそこにこそ 「そして生活が続く」という真実味のある物語があるから。人々はそこに今、リアリティを見ている。

これは、完全に人間側の認知の問題であり、その変化であり、トレンドの変化です。SNSが一般化し、AIが出てきたからこそ、起きている認知変容なのだと思います。

コミュニティは、再出発の物語を映すスクリーンであり、額縁だ

時間が経過していくなかで、あるタイミングで「いま、この瞬間に葛藤している誰か」にそっと手を差し伸べようとする。

そのとき、親切心もふわっと立ちあらわれる。

その瞬間、僕らはお互いを「共に学び合う同士」として認め合うことができるんだと思います。

これは、Wasei Salonを7年以上続けてきたなかで、深い実体験をもって、そして強く自信を持っていえることです。

またコミュニティの場合、どうせ続かないかもしれない。でもダメだったら、また始めればいい。そうやって何度だって始め直せるし、何度でも再出発を繰り返せる。

何度転んでもいいし、再び立ち上がればいい。もしくは、そのまましばらく転んだままでいてもいい。その経過も含めて、僕らは同じ場に居続けることができる。

ひどく緊張してしまうような、1回限りの試験やテストじゃなくなるんです。

これは、学校の友人や家族という共同体ともまったく同じです。一つ屋根の下で過ごしているからこそ、僕らは家族にも親友にもなれる。なぜなら相手の物語を知っているからです。

言い換えると、コミュニティは、そのためのスクリーンや額縁のような役割を果たしてくれる場でもあります。

でもそこは、いつだって出入り自由。入っても出てもよくて、常に「喫茶去」の精神で迎えてくれる他者がいるだけ。

失敗と挫折さえも、共同体にとっては「勝ち」になる

で、たとえそのときに、再出発しようとして失敗し、つらい思いや痛みや傷を負ってしまったとしても、その経験を通じて、他者の痛みを共感できるようになり、優しくなれる。

少しずつ人として、成熟していく。親切になっていく。それもまた、コミュニティにとってはむしろ確実に好循環を与えてくれます。

つまり、再出発しようとして、失敗したり挫折した経験さえも、コミュニティや共同体においては「価値」になる。

なぜなら、そうやって自分の葛藤の中で生きているからこそ、他者の痛みや苦しみにも自然と寄り添い、黙って見守ることができるようになるから。

逆に言えば、現代のホワイト企業における逆の「苦しみ」は、ここにあるのかもしれない。

失敗も挫折もしない代わりに、人間的に成熟していくきっかけも与えてもらえない。それは当然、つらいはずです。いつまでも子どものままでいろと仕向けられているわけですから。

企業は「仲間を減らし」、コミュニティは「お客様を減らす」

今日書いてきたようなことを意識して、コミュニティを構築していけば、あとは勝手に、その周りに小さな経済圏が生まれてくると僕は思っています。

だとすれば、これからのAI時代において僕らが考えるべきは、

「AIを使って、どうやってそんな『仲間』を増やすか」

という問いです。それはコミュニティだからこそ取り組めるテーマでもある。

一方で「人材はコストである」と考えざるを得ない企業は、いかに「仲間」を減らすかを考えているし、考えざるを得ない。

巨大なデータセンター建設のために、どんどんリストラを行い予算捻出に躍起にならないといけない。

そして、いかに「お客様」を増やすかのほうに尽力するわけですよね。それが資本主義、株式会社の定めでもある。

でもコミュニティは、その真逆なんです。 いかに「お客様」を減らせるか。これを考えるのが、コミュニティが目指す先だと思っています。

コミュニティの場で「お客様」のようなスタンスで関わられてしまうと、運営側も、他のメンバーもやりづらくなってしまう。

その代わり、いちメンバーとして、同士として敬意と配慮と親切心を持って振る舞ってもらえるなら、それだけで充分に価値がある。

僕はここに賭けたい。というか、ここがまさに「現代のボーナスタイム」なんじゃないかと思うのです。

 「素人臭さ」がバカにされている今こそ、いちばんのボーナスタイム

ビッグテックが天文学的な数字のお金を投じて、AIやその周辺の巨大なインフラをどんどん作ってくれている。

それがある程度完成してしまえば、必ずどこかで「逆回転」が始まるはずです。

いまはまだ、コミュニティや小さな場での「拙さ」や「素人臭さ」は、あまり価値がないと思われがち。

でも、世界がもっともっとAI最適化に振り切れていった先では、その素人臭さや、人間的なユレを含んだ場所こそが、むしろ大きな価値を持つようになっていく。

ブログやYouTubeが出てきた時も、最初はその「素人臭さ」をみんながバカにしていた時代があったんです。結果的に、「下手なプロ」のほうが、まだまだ幅を利かせていた。

でも今や、「上手い素人」が百花繚乱の時代です。

似たようなことが、これからのAI時代にも起きるんだろうなと個人的にはほぼ確信しています。

あとは、どれだけ「お互いに敬意を持ち合っている仲間」が揃ったコミュニティをつくりだし、その状況を活用できるか、だと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとって、今日のお話が、何かしらの参考となっていたら幸いです。