先日配信されていたゲンロンカフェの「250億の哲学──個人投資家の人生を聞く」という動画を観ました。

https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20251107
片山晃(五月)×東浩紀(+田端信太郎)250億の哲学──個人投資家の人生を聞く @hakureifarm @hazuma @tabbata #ゲンロン251107 ゲンロン完全中継チャンネル | シラス
【イベント概要】個人投資家の五月(ごがつ)さんこと、片山晃さんを招いたトークイベントを開催します。聞き手を務めるのは、ゲンロン創業者の東浩紀。現在43歳の五月さんは、専門学校を1年で中退したのち、4年間のゲーム廃人時代を経て、投資家への道を歩み出します。現在の純資産はおよそ250億円。M&Aやスタートアップ投資、さらに未上場のベンチャー企業への投資や、競走馬サラブレッドの生産事業も営むなど多方面で活躍されています。10月前半、ゼロ年代からのファンだったという片山さんから東に突然連絡が来たのをきっかけにイベントが実現。「究極の個人投資家」ともいわれる五月さんはどんな哲学をもって投資家人生を歩んできたのでしょうか。ゲンロンカフェ史上でも異色の対談です。どうぞお見逃しなく!■250億の哲学 – ゲンロンカフェhttps://genron-cafe.jp/event/20251107/-※ 生放送された番組は、放送終了後から半年間、アーカイブ動画(録画)として番組を公開しています。放送終了後も、番組の単独購入は可能です。※ 番組の視聴期限は予告なく早まる場合があります。その際、番組料金の返金は行いませんので、予めご了承ください。ご案内中の期限によらず、アーカイブはお早めにご視聴ください。
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ゲストは、250億円の資産をもつ個人投資家の片山晃さんと、後半には田端信太郎さんも飛び入り参加。

今回も5時間超えの有料動画だったのですが、本当にあっという間でとてもおもしろかったです。

株式投資に興味があったほうが、間違いなく楽しめるだろうなとは思いつつ、人文系の話題にしか興味がない方であっても、この配信はきっと楽しんでもらえるんじゃないかと思います。

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個人的には、特に、株式投資における「損切り」の話と、東浩紀さんの「訂正可能性」の話がつながるという視点が意外で、めちゃくちゃおもしろかったです。

つまり、「古い物語」を終わらせること、その重要性の話ですよね。

最近ずっとご紹介してきた東畑開人さんの『カウンセリングとは何か』の中に書かれている話なんかにも、見事に通じる話だなと思います。

古い物語を終わらせて、新たに再出発することの価値や勇気について、今ジャンル関係なく第一線で活躍する方々が口を揃えて語っていること自体が、本当におもしろい現象だなと思うのです。

もちろんこれは、僕が最近ずっとこのブログに書き続けている「弔い」の話でもある。

言い換えると、この弔いという感覚が「損切り」の価値観ともひもづくのかもしれないというところに、個人的にはものすごく深い衝撃を受けました。

今日は、この動画を観た感想と、そこから新たに考えてみたことをこのブログの中にも書いてみたいなと思います。

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この点まず、なぜ「古い物語」を終わらせることが大切なのか。

その理由は繰り返し語ってきましたが、今回の動画を観ていて僕が新たにハッとした部分は「人間は、黙って生きていれば、自然と古い物語に固執していく生き物だから」という点です。

これは、東さんが会場との質疑応答の際に「東さんはなぜ訂正可能性にこだわるのか?」といった趣旨の質問に対して、東さんは「人間はどうせ保守であり、自分の国を愛する方向へと勝手に向かう生き物だ」と語られていました。

「そこで、どうやってバランスを取るのかが重要で、保守の側が保守を唱えていると、保守でガチガチになってしまう。だから、訂正可能性の方向へと意識的に傾けておくことが大事」という話を語られていたんですよね。

これは言われてみると、とても深い説得力のあるお話だなと思いました。

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で、さらに興味深いなと思うのは、そこで大切になることがポパーの反証可能性、つまり、自分が古い物語に執着せずに、新しい物語へとちゃんと踏み出すことができているのかどうか、そのための何かしらの「テスト」、つまり「指標」がないといけない。

ここで前述した、株式投資の「損切り」の概念ともつながってきます。

この点、いついかなる時であっても、株という勝負の世界では「マーケットのほうが正しい」というのは、よく語られる話です。

自分の読みがあっていればちゃんと結果が出るし、想定した期間内に想定した結果がでなければ、それは100%自分の読みのほうが間違っていることになる。

つまり、そうやって、マーケットや株価の変動というのは、日々自分の判断を査定してきて、否定してきてくれる存在だと片山さんはおっしゃっていました。

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これこそまさに、市場の評価に晒さられることの「プラスの側面」だなと僕は思います。

うまくいっていないとしたら、それは単純にやり方が間違っているそれだけ。だとしたら、損切りしてトライアンドエラーを繰り返すしかない。

もちろん、個人投資家や株式をやっていない人であっても、売上や数字、何かしらの指標がきっと存在するはずであり、その指標と向き合うことからは、やっぱり決して逃げていけないんだろうなあと思います。

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過去に何度も語ってきたように、大事なことはブレない力でもなく、すべてをリセットする力でもなく、過去を引き受けて、古い物語を終わらせて再出発する力です。

だとしたら、自分が自然と固執してしまっている、執着してしまっている「古い物語」とは一体何なのか、それを丁寧に考えてみたい。

さらに、そこからいまの自分にとって一体何の「損切り」が必要なのかを考える。

その思考の傾向と、それを客観的に評価をしてくれる指標、どちらも常に持っておかないと、いつでもカンタンに人間は保守の方向、つまり古い物語に固執する方向へと流されてしまうということなんだと思います。

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でも、当然なのですが、古い物語に固執するのには、それ相応の理由もあるわけですよね。

また、「損切り」という言葉があらわすように、なんだかものすごく冷たく、冷淡な響きもある。

株式のような生き馬の目を抜くような世界だからこそ、受け入れられる言葉であり、人間関係などを損切りするといえば、やっぱりそれはどこか間違っていると思われるはずなのです。

そして、東さんもイベントの最中におっしゃっていましたが、僕らが一番損切りしたいと思っているその対象、でも決して損切りできないもの、それは「自分(自己)」でもあるわけです。

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じゃあ、どうやったら、それが冷たいものじゃなくなるのか。

で、ここで一気に話がズレてしまいますが、最近、老人が主人公の物語が世の中に一気に増えてきているなあと感じます。

団塊の世代が老人になったことで、「老人文学」とか「老人映画」とか、老人が主役でその老人が頑固なまま(価値観を変えることなく)、それがそのまま社会や世の中の「役に立つ」という物語が百花繚乱なタイミングがまさに今です。

でも、個人的にはこの「役に立たなければいけない」という思考に強い違和感がある。

逆に言えば、価値観を変えるかどうかはどうでもいい。昭和的な価値観で頑固なら頑固のままでもいい。

ただし「役に立たなければいけない(生産性がないと無価値)」というのは何かが間違っていると思います。

役に立たないまま、社会に存在してもいいんだという「物語」をつくる必要があると思う。

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そんなことを考えている時に、たまたまTwitterで今日見つけたのが、読売新聞の以下のニュースです。


最近よく思うのですが、65歳と75歳ではまったく保守的な姿勢や態度が異なるなと感じます。たったの10年ですが保守という文脈においては、この10年ではまるっきり変わってしまう。

「労働力」という意味では、老人にも働き続けてもらったほうがいいけれど、そのことによって社会全体が保守化・右傾化することになってしまうのも同時に間違いないよなあと思うのです。

65歳以上が働くことは一切否定しないから、その権力は手放して欲しいと感じる。

65歳からは、隠居としての新たな働き方を推奨するなど、働いてもらうことには異論は一切ないけれど、いつまでもトップや幹部の地位に居座り続けることはやっぱり違うんじゃないかなと僕は思います。

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で、こんなにも本題から話を脱線させて、一体ここで僕が何を言いたいのか。

数字や指標という客観的な評価だけでは、人間、特に年齢を重ねた世代には焦りをうみ、逆に意固地にさせる原因にもなりえてしまうということです。

だって、数字や指標に結果が出るということは、すなわち経済的な側面において「役に立った」ということと同義なわけですから。

そう考えると、その数字や指標だけでは決してわからないということです。

言い換えると、自ら置かれている状況から見える景色だけででは、そこには必ず死角があると言ってもいい。

まず自分が保守化して、古い物語に固執していることに気付かさせてくれるのが、市場の指標であることは間違いない。

「それと素直に向き合え!」ということが損切りの概念だと思うのですが、そうすると、年齢を重ねると、余計に焦らされる原因にもなる。

また、その指標だけが人生じゃないと感じてくるタイミングも、「老い」のなかで必ずやってきてしまうわけです。

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だから、僕らはそんなときに「信頼できる他者」の存在を必要とするんだろうなと思うんですよね。

このあたりが、今日僕が一番主張したい独自の意見でもあります。

他者と共に歩むことによって、相手に正しく受け取ってもらえると思えるから、素直に手放せる「古い物語」もあるということです。

そうじゃないと、ただ数字に追われて、加齢、つまり老いによってドンドンと意固地になり、余計に手放せなくなってしまう。

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これは過去に何度かご紹介してきた『ハウルの動く城』における荒地の魔女と同じ構図です。


ハウルの心臓を奪った荒地の魔女が、ソフィーから何か強い言葉で説得されるわけではなく、ただ黙って抱きしめてもらえたから「古い物語(ハウルの心臓)」を手放すことができた。

『ハウルの動く城』は、まさにそんな映画だったなと思います。

そのうえで、みんなであたらしい「家族」、つまりあたらしい共同体をつくって再出発するという映画です。

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透明性の高い市場の数字による評価と、それだけではなく、ただ黙ってそばで見守ってくれている他者の存在。

そのまったく相容れない両方の要素、どちらとも向き合う勇気が生まれた時に、僕らは本当の意味で、「古い物語」を終わらせて再出発することができるのかもしれない。

少なくとも、僕は今そう信じています。

どちらか一方だけでも、きっとダメだということなんでしょうね。

というか、どちらか一方に偏りすぎてきたから、今の現状の社会がある。

つまり、日本全体が追い込まれている「古い物語」に固執してしまっている構造がある。

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だからこそ、Wasei Salonにおいて、それらと素直に向き合っていける場をゼロから構築していきたいなと思います。

数字にさらされるオープンな世界と、黙って見守ってくれるクローズドの世界の両立。

そして、まさに「喫茶去精神」が大事であって、クローズドの空間に帰ってきたときには黙って「ようこそ!ゆっくりとお茶を飲んでいってください」と黙ってお茶を差し出してくれる。

でも一方で同時に「ここに居続けるんじゃない、お茶を飲んですぐに立ち去れ!」と追い出してもくれること。社会が突きつけてくる指標に向き合う機会も必然的につくってくれる。

この行ったり来たり、問い続ける過程や姿勢が本当に大事だなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。