このブログでは過去に何度かご紹介してきた臨床心理士・東畑開人さんの『野の医者は笑う: 心の治療とは何か? 』。

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この本は、東畑開人さんが30代のころに、沖縄の野の医者、つまり占い師や非公認のカウンセラーたちと出会った記録が綴られているような書籍になります。

タイトルや表紙のイラストからはまったく想像がつかないような内容で、本当におもしろい本ですし、東畑さんご自身も、この本には非常に強い思い入れがあると各方面で語られています。

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で、そのときの語りにおいて、いつも僕が本当にそうだよなあと思わされるお話が「治療は、複数ある」というお話です。

言い換えると、決してクライアントの治療の仕方はひとつではない、ということです。

沖縄の占い師やヒーラーたちは、そのカウンセリングを通じて何をしているのかと言えば、クライアントに対して「軽い躁状態」を作り出しているそうです。

なぜなら、沖縄という最低賃金が日本一低い土地においては「人生とはなにか?」といった実存的な問いに悩んでなんていられないひとたちもたくさんいて、まずは日々の生活費を稼がないといけないから。

だったら、軽い躁状態で市場に送り返してあげて生活を整えることが第一条件。

そのときに、余計に「生きるとは何か?」と思い悩んでしまい、実存的な方向へ行くとすぐに生活そのものが行き詰まってしまう。

まさに、生活の問題と実存(人生)的な問いの違いです。

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で、インターネットの世界なんかも、まさにそうですよね。

ネットを主軸にしたフリーランスという働き方なんかも、まったく一緒。

駆け出しの日々で、毎月の生活費さえも怪しいフリーランスの悩みに対しては躁状態にして市場に送り返してあげることが、何よりも大事になる。

その時に、実存的な問いのほうに引き込んではいけない。それがどんなに人間の葛藤として正しくても、です。

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このように、自分にあったものを探すことって、いま本当に大事だと思うんですよね。

逆に言うと、実存的な問いと向き合うことが必要なのに、躁状態にされてしまうこともあって、それは解決することも解決しないどころか、むしろ逆効果。

もちろん逆に、実存の方向にハマりすぎると、こっちはこっちでカルトの落とし穴が待っているわけです。だったら躁状態で「フリーランスで、年収何桁」ってドヤっていたほうがまだいい場合もあるのかもしれない。

ここがいつも、ほんとうにむずかしいよね、と思います。

自分にとって最適なカウンセリングや、そんな相談相手を探すことの重要性。

嘘も方便とはまさにこのことですし、置かれている状況によっても、まったく別々の答えがある。そこで提供されている答えに対して、他者が批判しても良いものでは決してないはずです。

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これは『嫌われる勇気』の中に書かれている「原因論」と「目的論」の対立なんかも、なんだかとてもよく似ているなと思います。

言い換えると、アドラー的な立場と、フロイトやユング的な立場の違い。

どっちが正解ではない。見方や立場によってはどっちも間違っているし、どっちも正しい。

引きこもり体質で、外の世界を体験したほうがいい人には「目的論」を説いて、まずは市場で働いてもらい、ある程度の社会性や安定収入を得てもらう必要がある。

逆に、外の世界をある程度体験し、その中での虚無感を感じているなら、改めて自己の「無意識」と出会い直してもらい、それこそ村上春樹作品が描くような「井戸掘りからの壁抜け」の一連の体験をして、あちら側に行って、こちら側に帰ってくるという体験が、必要かもしれない。

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そして、これは以前もこのブログの中で批判的に書いたことがありますが、村上春樹作品の主人公に共通する点は、なぜかいつもそのために必要なお金が、必要な分だけ、手元にあるんですよね。

しかもそれはなぜか本当に「ある」という状態なんです。

もしくは、パトロンのような人物がメンターとして登場する。

決してそのために主人公自身が貯蓄してきたからとかではないことが、本当に特徴的だなと思います。実存の問いと向き合うためのお膳立てが既になされているというわけです。

それこそが、物語のご都合主義的なところではあると思いつつ、でも実際に実存的な問いに向かうべきタイミングにいるひとには、現実社会においても意外と、なぜかしら手元に「お金」があったりするから不思議です。

それは、その人自身にそういうご縁が巡ってきているタイミングということでもあるのでしょうね。だったら、本当に心置きなく井戸掘りからの壁抜けを体験してみればいいと思います。

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繰り返しますが、これは良し悪しではない。

いま置かれている状況によって、癒やしは違う、治療は違う。

だからこそ僕は常々言い続けてきていますが「不一致を避ける」ことが本当に大事だなと思うのです。

目の前の相手にとって何が本当に必要なのか、考えることはとっても大事。

そのためには、他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること。相手の関心ごとに、関心を寄せること。

もし相手と同じ心と相手と同じ人生だったらどうなっていただろうかと、深く深く想像してみること。

そうすれば、自分も相手と同じ選択をしている可能性は非常に高いわけですから。これこそが本来の「共感」であって、他者に寄り添うための技術でもある。

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いやいや、そんなことは原理的に不可能だろと思うひともいるはずなんです。でも、一生その地点には到達できないとしても、そこへ限りなく近づこうとすること自体は可能となる。

そして、そこまで想像したうえで、ちゃんと不一致を防ぐことが大事だなと僕は思うのです。

自分の立場から、自分が信じている正しさや正解を身勝手に相手に押し付けてみても、何の意味もない。それがどれだけ「本質」や「核心」であったとしても、なんです。

「生活なのか、実存なのか」は、非常にわかりやすい二項対立ですが、そのなかでもたくさんのグラーデションが世の中には存在しているし、その状況自体も日々刻々と変化し続けていく。

本当に事前に確定している客観的な「正解」なんて、一切どこにも存在していないなと思います。

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この点、少し話はそれますが、先日もご紹介した「250億の哲学」というトークイベントの中で、とてもハッとしたお話が語られていました。

それは、「現代を生きる僕らが行っている労働は、マルクスの時代とは明らかに違う」というお話です。

マルクスが『資本論』を書いていたときに想定されていた、労働者階級の労働というのは、本当に完全に人権が無視されたような肉体労働だった。

しかも子どもや女性、身体が不自由な人々もソレに従事させられていたような時代でもあったわけです。

だからこそ、それを牛耳っている資本家たちを打倒しろ!とマルクスは呼びかけたわけですが、でも今は、もうそういう過酷な肉体労働の環境はなくなりつつある。

ちゃんと当時からは改善されていて、目指された世界もある程度は実現されている。

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でも、その実現している状態だからこそ、また新たに起きている別の悩みや不安、実存的な問いもあるわけですよね。

ホワイトカラーやサービス業のブラック労働などはその最たる例だと思います。

そのような、新しい満たされなさの中で、現代を生きる僕らは日々悩まされているわけです。

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最近とても話題になっていた、日経新聞の記事、アメリカの「専業主婦」回帰の潮流の話なんかも、まさに似たような話だなと思いながら読みました。


僕はこのタイトルを読んだ瞬間「日経は、またなんという煽り記事をつくって…」と思って読みはじめたのだけれども、この記事の最後の見出しの部分だけは、なるほどな、と思ってしまいました。

具体的には、以下の部分です。

「女性が夢やキャリアを追うことは否定せず、その生き方は家庭以外に居場所がない1950年代の専業主婦とはほど遠い。」

つまり、今のアメリカの専業主婦回帰の現象というのは、ある種の弁証法というか、インターネットやSNSが女性たちにビジネスチャンスや自己実現のチャンスを見事に広げている。

そして、バーチャル・リアル問わず新しい居場所を女性たちにつくりだし、それが社会的にも定着したからこその、新たな「専業主婦」像が今叫ばれているという点であって、これはなんだか目からウロコだなと感じました。

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戦後、家父長制によって、家に閉じ込められている女性たちがみんなで一致団結してくれたことによって女性解放運動がある程度は世界的に実現した。

でも、その解放を求めていた女性たちの中で本当に欲していたのは家庭以外の居場所だった、というひとも意外と多かったということなんじゃないのかなと思います。

そこが見込み違いだったというか、社会の中で男性と同様に、たとえば孫正義のように「事を成したい」と願う女性はほんの一握りであって、女性解放運動やフェミニズムが分裂している理由みたいなものも、きっとここにある。

そもそも仕事や人生を通じて「コミュニティを重視するのか、社会的成功を重視するのか」みたいな話にもつながると思います。

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繰り返すけれど、僕らの仕事はもうマルクスの時代とは明らかに異なる。

当時のひとたちから見れば、労働には見えない。ときには、それはブルシット・ジョブと揶揄されたりもするものだったりもする。

でも、こちらも繰り返しますが、それゆえに生まれている新たな悩みもあるわけですよね。すべてが解決されたわけじゃない。

というか、解決されたからこそ生まれる新たな歪みが必ず出てきてしまう。

女性たちが追い込まれている状況も、まさにそう。そこにちゃんと目を向けたいなと思うのです。

それっていうのは、先人たちが一生懸命にバトンを繋いできてくれた平等概念や人権概念をつくってきてくれたからこそ、存在する現代特有の悩みであり、不安であり、不満でもあるわけですから。

そして、そこに対してはまた救い方や治療もたくさんあるということです。

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決して正解はひとつではない。

逆に言えばもう「一般的な正解」を掲げてみても、あまり意味がない。

最近何度も言及している「本質」を語ろうとする違和感も、ここにもつながっているはずです。

厳密には「本質」も存在はするのだろうと思うけれど、誰にでも一般化できる普遍の客観的に定められる「本質」や「正解」が存在するというその人間の驕り、それ自体が今一番邪魔な存在でもあるわけですよね。

だからこそ、画一的な「正解」になるような答えは存在せず、「不一致を避けながら、共に探り続ける」という姿勢そのものが、現代における最も誠実な「癒やし」であり「治療」や「救い」へのアプローチなのだと感じます。

不一致を避けながら、共に探り続ける、問い続けるという姿勢を、これからも引き続き大事にしていきたいなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。