東浩紀さんのツイートを見て、あらためて「しゃべる」と「書く」の違いって、本当に不思議だなと思いました。
この話題に関連し、なぜ僕は先にブログを書いてから、それをVoicyで話すという順番を選んでいるのか。
逆に言うと、なぜ一人で喋ったものを文字起こしして、それをAIに編集させて、ブログ形式にしないのか。
今日はこの点について、改めて自分の考えを整理してみたいなと思います。
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まず結論から言うと、これはかなり意外に思えるかもしれないのですが、一人しゃべりの場合、汚い言葉が言えない、汚い思考が使えないからです。
いや、「汚い言葉」だけじゃなくて、もっと広く言えば、「極端な思考」をそのまま出すことができない。
一人しゃべりは、基本的に「他者が聞く前提」の表現です。
だからどうしても、最初から思考にブレーキがかかってしまうし、自らの論理の一貫性のほうを重視してしまう。
一方で、僕にとって「書く」という行為は、むしろその逆がしたい。
自分の中に存在する両極端の意見を、いったん全部テーブルの上に並べて、その上で読み手にも届く形に論理立てて、組み立て直す作業だと思っています。
たとえば、昨日のブログとかもまさにそう。
この内容を一人しゃべりでやろうとした瞬間、いろいろなところからお叱りが飛んでくることは間違いない。
あと、そもそも僕自身があの内容を、しゃべりの形式では実現できない。それゆえに、先に書いて、それを声で朗読するような形式を取っています。
テキストだけで完結してもいいけれど、これだけ耳で聞く習慣が浸透してきているから、音声でも残しておきたいなあと思うからです。
オーディオブックならぬ、オーディオブログを日々淡々とVoicyで更新し続けているつもりです。
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思うに、人が聞く前提の一人しゃべりを文章にしてしまうと、最初から言わないことにしてしまうことが増えすぎてしまう。
そして、無意識のうちに自分を「わかりやすい記号(キャラクター)」へと去勢し、社会的な正しさに着地させてしまいやすいなあと思います。
ここが今日のいちばん伝えたいポイントかもしれません。
さらにそれを、私の意見だとして、AIを用いてブログやnoteに固定してしまうのは、本当によろしくないなと感じます。
そこにあるのは、効率性の論理だけでソレ以外はすべて書くという作業に劣るなと思います。
にも関わらず、その効率性だけを重視した行為を行おうとしてしまいたくなる自分とは一体何かに対しハッとし続けたいなと、僕なんかは思うのです。
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もちろん、台本無しでしゃべる行為、思いつきで話すような内容が、必ずしもすべてが悪いというわけではありません。
そこはくれぐれも誤解しないで欲しいところです。
でもそれは、日々書きながら考えたことがあるという前提で話す、そんな日々の執筆活動あってこその話だと思うんですよね。
そうじゃないと、口を滑らせたらまずいと思えば、結果としてズルズルと自己立場の強化、もしくは無意識のうちに社会的な正しさへの方向へと迎合していってしまいますから。
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つまり、ただのテレビのコメンテーターみたいになっちゃうわけです。
自分が気が付かないうちに、ドンドンと欺瞞的になっていく。自分が支持している立場に対して偏った意見ばかりを話すようになってしまう。
それは言葉数が多いだけであって、考えているようでいて、何も考えていないなと思うのです。
逆に言えば、なぜテレビのコメンテーターはタレントさんや芸人さんばかりなのか?
あれは決してたまたまではなくて、彼らはいつだって「キャラクター」や「記号」に徹してくれるから、なんですよね。
ニュースになっている事件や出来事に対して、このキャラクターや記号だったらどんなふうに返すのか、それが最初からはっきりしているから、力と出力に一切ブレがない。
その役割期待に安心しながら、視聴者も話を聞くことができる。
ただし、これだけ生成AIが発展してきたから、そのうち国民的なアニメのキャラクターがコメンテーターの席に並ぶ日も、もうそんなに遠くないと思います。「ドラえもんさん、どう思いますか?」とか「コナン君の意見はいかがでしょう?」となる日も遠くない気がします。
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書くという行為は、そういう自己のパブリックイメージから一旦離れて、まったく違う自分と対話していくことができること。
それが、書くということの真の価値でもあるはずなんですよね。
だからこそ、しゃべるときは「対話」が重要になる。書くことを一人でやっていた他者役を、実際のほかの他者が担ってくれるからです。
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この点、いつも非常にわかりやすいなと思うのは、内田樹さんのアパートの比喩です。
最近読み終えた内田樹さんの新刊『老いのレッスン』という本から、このアパートの比喩を語っている部分を少し引用してみたいと思います。
自我というのは「アパートみたいなもの」だと僕は思っています。いろいろな「自分」がそこに暮らしている。子どもの時の自分も、青年期の自分も、おっさんになった自分も、病み衰えた自分も、そこに暮らしている。
(中略)
成熟するためには、「ほんとうの自分」が一人で暮らしている一軒家に住むより、「いろいろな自分(その中には「かつて自分であった自分」だけじゃなくて、「まだ自分であったことがない自分」も含まれています) が共生している「アパート」でごちゃごちゃわいわい暮らしている方がいいと思いませんか。その方が人間についての理解は深まるし、意見が違う人たちとの合意形成や、理解も共感も絶した他者との共生のための基礎訓練にもなる。僕はそう思いますけどね。
この「アパート」の住人たちとの合意形成のプロセスが、本当に大事だなと思います。
アパートの住人同士のあいだを取り持っていく作業、そのファシリテーション役としての合意形成こそが、書くという行為の真髄そのもの。
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で、このあたりで、本をつくる際のプロセス、聞き書きや口述筆記のむずかしさなんかもわかってくるかなと思います。
あとがき部分で「すべて最初から書き直しました」と語るタイプのひとは往々にして、自分のなかの葛藤がハッキリとあるひと。成熟のプロセスのために書き進めるタイプのひとだと思います。
一方で、聞き書き形式を採用し、一切書き直さないひとは、立場がはっきりしているひとが多い。つまりキャラクター化、記号化しているひとたちです。
芸能人の本も、大抵の場合は聞き書き形式で書けてしまうのは、そのためだと思います。キャラクターや記号が話を続けているから、ほとんどブレがない。
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で、話を戻して、内田樹さんのアパートの比喩でおもしろいのは、その結果として自分の中のアパートの住人たちが「同程度に不満足になること」を推奨する点なのです。
自分が何か重大なことについて判断し、決定的な行動をする時には、この「アパート」で住民会議を開くことになります。いろいろと意見が出ます。深刻な対立が生じることもある。でも、まあだいたいみんな同じくらいに不満なところが「おとしどころ」になります。民主主義ってそういうものですからね。満場一致ということはまずない。「絶対こっちが正しい」という方が多数を制して、「それだけは絶対にやだ」という少数派が涙を呑むというようなことがあっては困る。みんなが同じように片づかない顔をして「まあ、その辺りが『落としどころ』だわな」と眉根にしわを寄せて腕を組む……というのが民主政におけるものごとの「よい決まり方」です。
これは、本当にそうで、少なくとも立場が違うまた別の自分を黙らせない、って本当に大事だなと思うのです。
昨日のプレミアム配信の中でも、僕の中のアパートの住人たちと会議をしながら書きました。
具体的には、
清潔感こそが大事だと思う社交性重視の自分、
清潔感なんてバカバカしいと思っている個人重視の自分、
清潔感ってそもそもなんだろう?と思っている探求視点とかオタク的な側面の自分。
その全員が、喧々諤々と自分の意見を言いながら、その対話の書記係を務めるようにして僕はブログを書きました。
そして、その議論が終わると、全員のどの主張も直接的に採用するわけではないけれど、このあたりが全体の落としどころだよね、と思うところに自然とおさまっていく。
そして、日々、このような書く作業を行うからこそ立場が違う相手に対しても敬意を持てるようにもなる。
なぜなら、自分以外の他者もまた、それぞれのアパートを生きているように思えてくるからです。そこではみんなそれぞれにある程度の不満を抱えている。
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この点、たとえば、最近鬼バズしている、こたけ正義感さんのネタなんかもまさにそう。
あれも間違いなくネタを先に書いているはずです。少なくとも、用意している原稿やプロットがあることは間違いない。
そして、後半、とてつもない差別、ネットでそのままタレントさんが書き込んだ瞬間に大炎上するようなドキッとする話にもつながっていく。
でも、1時間弱の話を聞いてきたひとにとって、そんな言葉狩りしても意味がない、そこには悪意がなく、むしろ敬意に溢れていると感じるような話の構成になっているわけですよね。
つまり、その悩みや葛藤、成熟した態度ゆえの意図した差別発言だってわかるから、極端な話であっても安心しながら聞くことができる。
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ここまで読んできた方は、とはいえ「ひとりで喋っているときにも、あーでもないこーでもないと行ったり来たりできるじゃないか!」と思う方もいるかもしれない。
それは実際にそのとおり。でも、今度はそれを聞く側の人間が聞くに耐えないわけです。
「結局どっちなんだよ!矛盾しているだろ!立場を明確にしろよ」って聴いている側が必ず思ってしまう。
話し手の結論が、はっきりしない状態での曖昧な話の進行に人間は耐えられない。
だからこそ人間は、物語を求めるわけです。物語は必ず、起承転結、その道筋がはっきりしていて、関西人の場合はオチまでちゃんとつけてくれる。
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逆に言えば、相当の胆力があるひとが聞かないと、一個人の結論が定まっていない行ったり来たりの話は聴けない。それを聴けるのはプロだけ。つまりカウンセラーのお仕事になるわけです。
なぜなら、そのような喋り方って大抵の場合、精神病患者やうつ病症状のひとたちに似ているから。
逆に言えば、精神病患者のようになりかけているひとはアパートの住人の対話をぶつぶつしゃべりながら、ひとりで垂れ流してしまうひとたちなのだと思う。
東畑開人さんの「も」の思想なんかも、まさにこれに当たる気がします。
LINEの「死にたい」のメッセージは、「死にたい」も「死にたくない」も、どっちもある。完全に拮抗している状態。アパートの住人同士だけでは一切決着がつかなくなっている状態。
このときにはもう、仲裁や裁判など第三者の助けが必要なタイミング。ましてや、それを音声コンテンツなんかにして公開できるわけがないわけです。
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最後に、キャラクター化していくことに割り切るスタンスも、ひとつの生き方だと思います。
タレントさんやインフルエンサーたちがそうであるように、なにかしらのオピニオンリーダーというのはソレが求められている役柄でもあることは間違いないわけですから。
ただ、そういうひとたちほど、40代以降はなんだかとても辛そうに見える。実際そうやって活動してきたひとたちは、40代になって一貫性を重視するがゆえになぜか途端にパワハラめいてくるし、30代頂点説があるなと思う。
それは、自分自身が大きく変わってしまうから、なんでしょうね。周囲から求められていることは、キャラクターとしての私、そのジレンマに本人自身が葛藤してしまう。
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もちろん「死ぬまでやったれ猿芝居」の精神で生きることも可能です。
現に渥美清は人生後半、様々な役者のオファーを断り続けて、生涯、寅さんという役柄ひとつを演じきったそうです。
本当に素晴らしいことだなあと思います。
でも渥美清の自伝を読むとわかることなのだけれど、それまでに本当に様々な葛藤をしてきたひと。人生波乱万丈だったひとだということが、とても良く伝わってくる。
それゆえに、寅さんの役になりきれたということでもあるんだと思います。自分の中のアパートの住人たちの「多声性」に対して、耳を傾ける訓練がすでに完了していたひとだったはず。
その時点で、すでに成熟していたといえる。そこからはまさに観音菩薩のように、他者救済の道を選んだのだとも言えそうです。
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僕は、AI時代だからこそ、ちゃんと自分の力で書いてみませんかって本当に思う。
書きながら、自分のアパートの住人たちと対話をしながら、多声性こそを大事にして成熟してみよう、自らが変わってしまうことを恐れないでいよう、って思います。
Wasei Salonも、そんなふうに日々書くことで、自分のなかの多声性に対して耳を澄ませるひとが集まる空間にしていきたい。
そして、それぞれのアパートでの対話を持ち寄って、さらに生身の人間同士で、敬意と配慮と親切心を持ち寄った形において実際の対話をしていこうよ、とお誘いをしたい。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
