Twitter辞める辞める詐欺は、大人のリストカットみたいだなといつも思う。

辞める辞めると何度も口では言いながらも、大抵の人は、そのまま辞めない。

別にその矛盾を批判したいわけではないし、「最初からどうせ、辞めるつもりなんてないんだろう!」と言いたいわけでもなく、きっと、その背後、本人の無意識の中にあるのは「続けたい」という強い希望なんだろうなあと思うんですよね。

でも一方で、その続けたいという「希望」それ自体が深く傷ついてしまっている。だから、その絶望から「Twitterを辞める」という話になるわけで。

何も矛盾はしていない。

そして、この現象を表面的に見ると、リストカットに非常によく似ているなと思う。

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この点、リストカットって、僕らの若いころにやたら流行ったから「あれは一体何だったんだろう…?」という問いが、自分の中にずっとありました。

子供心に全く理解できない、わからない現象として映っていた。

「死にたいの?生きたいの?一体どっちなの…?」というふうに。

そこで、わからない問いとして、ずっとそのままわからないまま保留してきて、臨床心理学者・東畑開人さんの『雨の日の心理学』を読んで、20年越しぐらいに「もしかしたら、こういうことなのかも?」という説に出会いました。

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具体的には、この本の中の、LINEの「死にたい」のメッセージの構造を解説されていたところを読んで、「なるほど、そういうことだったのか!」と個人的には腑に落ちました。

東畑さんは、本書の中で、そもそも「こころ」がひとつではなく個人のなかに複数あって、それが綱引きをしているのが見えると理解が変わると言います。

以下で本書から少し引用してみたいと思います。

たとえば友達から「死にたい」「もう私死ぬから」ってLINEのメッセージが来たとします。このとき、まずは死にたいこころが見えますよね。その人の意識は死のうと思っている。

だから、僕らは「本当に死んじゃうかもしれない」って思って、不安になったり、パニックになる。焦ります。でもね、LINEを送るということは、その人の中には死にたくない気持ちもあるはずなんです。本当に死にたい気持ちしかなかったら、メッセージを送ろうとは思わない。「生きることへの絶望感をわかってくれるかもしれない」という希望がそこには潜伏している。これが無意識になっている。


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で、ここで先回りして、ちゃんとブレーキを書けてくれるのが、東畑さんのいいところ。

「死にたい死にたいっていうやつは、どうせ死なないんだよ!」みたいなマッチョな話ではありません、と明確に先に釘を刺してくれます。

そして、そのようなマッチョな話は完全に間違っていて、本人が「死にたい」と言っているときには、当たり前ですけど、死にたいんですよ、と。でも、その裏に死にたくない気持ち「も」ある。両方あるのですと、東畑さんは語ります。

このあたりが本当にわかりやすいし、素晴らしい解釈だなあと僕は思う。

そのうえで以下のように話を続けていきます。

再び、本書から引用してみたいと思います。

重要なことは、傷ついているこころは無意識になりやすいということです。このとき、一見、「死にたい」気持ちの方が傷ついているように思われるかもしれません。それが苦しい考えであるのは事実です。でも、本当は「死にたくない」という気持ちの方が傷ついている。

だって、そうでしょう?これまでに「生きよう」と思い、「この苦しさをわかってほしい」と願ってきたわけです。そこには希望があったのだけど、裏切られ、叩き潰されてきた。希望は深く傷ついて、その結果として絶望している。このとき、傷ついているのは希望で、無傷なのは絶望です。だからこそ、死にたくなる。


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これは、本当にすばらしい解釈だなと思います。

そして、ケアされる側だけではなく、本書の主題でもあるように「ケアする側」のひとの「雨の日の人」に寄り添う役割の人々の苛立ちや、わからなさ、辛さみたいなものにも、同時にきれいに寄り添ってくれている。

特に「傷ついているのは希望で、無傷なのは絶望」という指摘には、僕もものすごくハッとさせられました。

多くの人が絶望そのものを問題視しがちですが、実際には希望が何度も打ち砕かれた結果として、絶望に至っている。

Twitter辞める辞める詐欺も全く一緒であって、そのひとは実際にやめたいと思っている、でもなによりも「続けたい」という気持ちもあり、その希望が完全に傷つけられている。

だから、辞める辞める詐欺を何度もツイートしてしまうわけですよね。

そうじゃなければ、何も言わず黙ってスッと辞めてしまえばいいんですから。

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このことを踏まえて「表面的な言葉だけで、相手の意志を判断しない」って本当に大事だなあと思います。

辞める辞めるといいながら続けている、あいつは矛盾だらけなヤツだ、と断罪しない。当然、その逆で相手の無意識を言い当ててて、勝手に満足もしてしまわない。

どうしても僕らは、そういう矛盾する行動を取っている人間が目の前にいると、非常に厄介で世話もかかるから「じゃあ、一体どうしたいんだよ!おまえの本心は一体なんなんだ!」って詰め寄ってしまいがちです。

でも、ここでも東畑さんは僕らのそんな感情を先回りして読んでくれていて、東畑さんにしては、結構キツい調子で、以下のように書いてくれています。

「お前ほんとは死にたくない気持ちがあるんだろ」って言ってもしょうがない。そういう物言いは暴力になります。無意識は言い当てればいいってもんじゃない。当てっこ遊びじゃないんです、ケアは。


このあたりは、実際にものすごく思うところもあるんだろうなあと感じます。

そうじゃなくて「『わかる』とは、この両方をおさえておくということ」だと東畑さんは語ってくれている。

雨の日にわからなくなったこころは、このもうひとつのこころ(=無意識)の存在に気づくと、「わかる」ものになる。そこに人間らしく葛藤している相手がいることに気がつくからです。


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くれぐれも、「死ぬんじゃなかったの?」とか言わない。「Twitter辞めるんじゃなかったの?」とか言わない。

大事なことは、そこに人間らしく葛藤している相手が存在している、その綱引きしている様子、それ自体を大きく包摂すること。

逆に、表面的な言葉だけを言い放ったり、無意識を言い当てるだけの場合には、それが逆上するきっかけを与えてしまう。より一層、相手が癇癪を起こすことにもつながっていく。

葛藤していることに対して、ただただ寄り添う、共にいる、が本当に大事だなあと。

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そもそも、死ぬの語源は、過去に何度もご紹介してきた「萎ぬ」という説があって、再びイキイキしてくることも、間違いなくあるわけだから。

その萎びて枯れて、一度は散って、でもときが巡れば、また再びイキイキしてくる様子、それがありのままに相手を受容するということでもあると思う。

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逆に言うと、たとえばイーロン・マスクがやっていることは、人間にはどれだけ希望が傷ついたって、生きたいという欲望に負けて、舞い戻ってくるということを、残酷なほどに理解をしたうえでやっている。

ある意味では、人間の「無意識」の真理をついているのが、イーロン・マスク。実際、その通りに僕らは行動してしまっているわけですからね。

大半のひとは、辞める辞める詐欺をしながら、アカウントは消さない。一回辞めてもまた新しいアカウントをつくり戻ってきたりもする。

そして、これこそがビジネスの本質だなあとも思います。逆に、ただただお金が欲しいひと、ビジネスが成功させたいひとは、この人間の葛藤を上手にハックすればいい。

ものすごく単純明快な話です。

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具体的には、相手の中にある意識と無意識、その振り子の揺れをドンドンと大きくしていく。そうすれば、いくらでも相手のアテンションを奪うこともできるし、同時にお金と時間も巻き上げることができる。

そして本人も、なぜ自分がそんなに熱中したり、執着しているかもわからない。だって「意識」は意識できたとしても、もう一方の「無意識」は無意識ゆえに、意識できず、完全に相手に操作されてしまっているから。

そして、イーロン・マスクのような天才は「ほらみろ!あいつらは辞める辞めると言いながらも、無意識には勝つことができないんだ」ってことになって、高笑いが止まらないわけれども、それは『カラマーゾフの兄弟』のイワンや、大審問官のシーンみたいな話だなとも思います。

そうじゃなくて、やっぱり寄り添うということが大事なんだろうなと思う。

具体的には、相手の意識と無意識、その葛藤や揺れ動き自体に寄り添って、その振幅がなるべく小さくなるように見守っていく。

これは、一番お金にはなりにくい部分だと思うけれど、健やかに暮らす、お互いに手を取り合って協力し合うということは、まさにそんなイメージです。

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このように、穏やかだけれども、でも強い意志を持った共同体や空間をつくっていきたいなと僕なんかは思います。

そんな人間の「自然治癒力」に対して、強く希望を持ちたい。

人間はとても弱いけれど、同時にとても強い。ある意味ではこれは「自己防衛」だし、自分たちの身は、自分たちで守るというリアリスティックな話でもある。

誰かが守ってくれるわけではない。

国家や自治体、企業も頼りにならなければ、自分たちで防衛するしかない。そんなつもりでWasei Salonを運営している気持ちは強くある。「七人の侍」みたいな話ですね。

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。