朝の舞浜行きの電車の中で、ディズニーランドにワクワクしながら向かっているひとには、2種類のひとがいます。

ひとつは、ディズニーランドに時間を潰しにいくひと。

そして、もうひとつは、ディズニーランドに取材しにいくひと。

僕は完全に後者のタイプ。もちろん仕事ではなく、プライベートで訪れるときも、この「取材」というスタンスは変わらない。

でも実は、後者のタイプのひとが圧倒的に少数派なのだと、大人になってからやっと気が付きました。

外形的にみると同じようにワクワク楽しそうにしているから、完全に同志だと思っていたら、訪れる目的が全く異なってビックリすることがよくあった。

「お金払っているんだから、俺を楽しませてくれよ!」という受動的な態度でディズニーランドに行くのが前者のタイプだとすれば、「今日は果たしてどんな発見があるのだろうか。目一杯観察させていただきます!」っていう能動的な態度で臨むのが後者のタイプです。

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ディズニーランドに限らず、自分が時間を費やすものに対して、この「取材する」という態度は一切変わらない。先日、伊勢神宮に行ったときも似たようなことを考えました。

とにかく僕は、観察がしたいんだと思います。ヒト・モノ・コトすべてを観察したうえでしっかりと知覚したい。そして、これは決して大げさではなく「生きる」ことってすべてそんな「取材」の集積なのだと思ってしまっている節がある。

世界を取材するからこそ、自分のなかに新たな問いが生まれてきて、その問いに導かれるように学びにもつながり、その学びで得られた新たな材料も含めて、自分で考えたことを他者に伝えていく(表現する)。

人生は、ただひたすらこの繰り返しだと思っていた。逆にこれが禁止されてしまったら、人生は何をしていいのかがわからない。

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でもたぶん、こんなことを書いている自分はきっと、ものすごく哀れなひとだと思われるはずなのです。

「えぇ、あのひとはディズニーランドさえも純粋に楽しめないんだあ…」と。

でも、僕からすると「楽しむ」とか「遊ぶ」とかって、「取材することでしょう?」と本気で思っている。

たとえば、赤ちゃんなんて、僕からすると1日中必死で取材しているように見受けられます。

世界という広義の「他者」と一日中接触を繰り返して、触ったり口に入れたりしながら、世界を常に取材し続けている。そして、いつもそれらを指差しながら他者と共有しようと必死です。

赤ちゃんが取材していないのは、寝ているときぐらい。でも、きっと寝ているときは脳の中でデフラグをしていて、取材したことをノートに必死で整理をし、まとめているような感覚なのでしょうね。そう考えると、やっぱり生きているということは、すべて取材の過程の中にあるようにも思う。

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生きることが取材になれば、すべての事象が「気づきや発見」に変わりうる。

そうすると、「あれ、なんかつまんないな…」って思った時にも、「じゃあ、なぜつまらないのか?」という取材に瞬時に切り替わっていきます。

参照:    トークイベントに参加するのは、まとまった考える時間を確保するため。

とにかくそうやって、一日中ずーっと「材料」を集めている感覚が僕の中にはあるのです。

何か新しい事業やプロジェクトをつくったりするために、具体的な取材をすることもあるけれど、大半はそれが何に役立つのかなんてわからない取材です。

振り返れば結果的に、そのような自分の中に集まった何に使えるかわからない材料の山を眺めながら、「ブリコラージュ」している感覚。

参照: ボトムアップ型のDIYでつくりだす。なぜブリコラージュ的な発想が、いま重要になってきているのか? 

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最近になってやっと、人生は取材ではないと捉えているひとたちがいることを、本当の意味で理解できるようになりました。

彼ら、彼女らに対して、ちゃんと共感(エンパシー)を抱くことができるようになってきたように感じます。

とはいえ、じゃあ彼らが日常的に何をしているのかは、未だにいまいちよくわかっていない。「だから、それってつまりは取材でしょう」って言ってしまいそうになる。

なるほど、世界は広い。

いつもこのブログを読んでくださっている人たちにとっても、今日のお話が何かしらの気付きや発見につながったら嬉しいです。