先日こんなツイートをしてみました。

気づきのもとになったのは、山口周さんのこちらのツイートがきっかけです。
近年「やんちゃな発想から生まれる『遊び』のほうが重要である」ということは広く一般的に語られるようになってきたように感じます。

しかし、それがわかっていてもなお、社会常識や一般通念に引っ張られて「やんちゃ」であることを諦めてしまうひとは後を絶ちません。

大学生が「就活生」になった瞬間に、髪を真っ黒に染め上げて、リクルートスーツを自然と着てしまうように。

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だからこそ、どうしても「やんちゃ」かつ「孤独に強い」ひとを社会は求めてまうのだと思います。

でも、そのような孤独耐性が強いひとって、ある意味で痛覚がぶっ壊れたひとみたいなものだと思うのです。

もちろん、そんなひとは一定数の割合で社会には存在しているとは思いますし、そんなひとたちがこの世界を変革してきたこと間違いないのだけれども、そのような「孤独耐性が極端に強いひと」というのは先天性のものであって、それこそギフトみたいなものだと僕は思います。

普通に日本で暮らしてきた経験を持ち合わせてしまっていたら、まず無理。日本という国の社会性が、孤独耐性を持ち合わせ続けていることを許してはくれません。

でも一方で、「やんちゃ」な発想を持ち合わせているひとは、実はものすごく多い。きっと、学生時代の友人の中にも「やんちゃゆえに面白い発想の持ち主だったひと」が何人か思い浮かぶのではないでしょうか。

だからこそ僕は、孤独耐性のある痛覚ぶっ壊れたひとたちを待ち望み、彼ら(彼女ら)に一方的に社会変革を頼り切るのではなく、やんちゃかつ孤独耐性が弱いひとを支えていく仕組みのほうが重要だと思うのです。

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この点、2018年ごろに同じく「やんちゃ」というキーワードで、こんなことをつぶやいていました。
まさにこのような場所をつくりだしていくことが、結果的に世界のなかに「やんちゃ」を増やしていくことにつながるのではないかと大真面目に思っています。

そもそも、やんちゃ性を持ち合わせていないひとなんていない。子供時代には誰しもがみんな無邪気でやんちゃだったのだから。それは子供が遊んでいるところを見ていれば、すぐに理解できることだと思います。

それを許してくれるような場所や、「やってみてもいいよ」ときっかけを与えてくれて、それを見守り発散させてくれるような場所が、なによりも今の社会には大切なのではないでしょうか。

会社や学校のように、禁止し合ったり監視し合ったりするのではなく、お互いに許し合えたり面白がれたりする関係性がより一層大切になってきているように思います。

参照:本当の安心安全とは、決断を迫らずに、共にいること。 

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。

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