名著や古典など、素晴らしい作品を読んでいるのにも関わらず、孤独を感じてしまうひとは多いです。

その理由は、今の時代からドンドン切り離されているような感覚になってしまうからだと思います。

もちろん、同時代に同じ本を読んでいる人間が決して多くないことも原因のひとつ。

この点、読書が本当に好きで孤独耐性も強いというひとは、それでも全く問題ないと思うかもしれないですが、一般的なひとはやはり誰かと「読書の感想を共有したい」と願ってしまうものです。

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だからこそ、他者と「共有したい」という欲求を優先した結果、現代作家が書いた「◯◯賞受賞」というような何の中身もないような本ばかり読んでしまうのでしょう。

そのような本は大抵の場合、ムダに現代社会を斜に構えて眺めてみて、単にこじらせているだけの小説である場合が多いです。

「見て、私ってこんなに生きづらいの」と嘆くだけの内容だったりする。

それらは5年後、いや3年後にはもう誰も記憶にさえとどめていないタイプの本です。

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「読書の感想を他者と共有したい」という理由だけで、そのような本を手にとってしまうのは本当にもったいないなあと感じてしまいます。

もし本当の読書仲間がいれば、価値のある名著や古典のほうを読めていたはずにも関わらず、そんな仲間が周囲にいないから仕方なく、世間で話題になっている本やマンガばかりを立て続けに読んでしまう。

僕は、この孤独をどうにか和らげたいなあと思っています。

そのためにはやっぱり、他者と「対話」しているような感覚を擬似的にでも体験できるコンテンツをつくっていくしかない。

この点、「書評記事」のような一方通行の手紙形式のコンテンツではダメなんですよね。

それだとやっぱり「1対1」になってしまうから。

文庫版のあとがきの部分に収録されている「解説」とあまり大差がありません。

もちろん、そこで満たされる共有感覚も存在するのだけれど、本当に欲しているのはもっと双方向で多角的な「対話」の感覚なのだと思います。

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この点、最近「オーディオブックカフェ」で、ドストエフスキーの『罪と罰』を取り上げました。

参照: ‎オーディオブックカフェ:Apple Podcast内の#32「罪と罰」/ドストエフスキー著

この回はとても反響が大きくて、まるで僕らと対話しているような感覚で聴いてくれたというリスナーの方もいらっしゃいました。これは本当に嬉しいことです。

まさにそんな感覚を生み出していきたい。

このWasei Salon内でも「読書会」は頻繁に開催されていて、過去に開催してきた数百本のアーカイブ動画が今もサロン内には公開されています。

そんな名著や古典の読書会のアーカイブをラジオ感覚で聴くだけでも、一緒に対話しているかのような感覚で楽しむことができるはずです。

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そしてこれは昨夜ツイートした「アドホックな連帯には意味がない」という話にもつながってくる話だと思っています。

他者と共有したいという感覚は、もちろん書籍(読書会)だけにはとどまらないはずです。

たとえば、旅行先なんかでもまったく同様のことが言える。

本当はもっと「暮らし」と「歴史」が地続きにあるような場所に行ってみたいと思っているのにも関わらず、友人や家族と合意形成していると、そんな古臭い場所なんかではなく、USJやディズニーランド、わかりやすいリゾートがいっぱいある沖縄や北海道に行こう!となってしまう。

それは決して楽しくないわけではないけれど、何か大切なものからずっと遠ざけられているような感覚に陥ってしまうひともきっと多いはず。

この孤独感や疎外感を少しでも和らげていきたい。

「本物」に触れるための場や機会を提供するための音声コンテンツや継続的なコミュニティを、これからも淡々とつくっていきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。

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10月に開催されるWasei Salonの体験会はこちら。