拠点も持たずにひとりで働いていると「よくその孤独に耐えられますね」といった趣旨のことを度々聞かれることがあります。

でも、僕からするとその真逆で、みんなはよくその孤独に耐えられるなあと思う場面が多い。

僕は孤独が苦手だからこそ、孤独にひとり創作している節があるのです。

今日も一風変わったそんなお話を少しだけ。

ーーー

例えば、大人数の飲み会や立食パーティーのような懇親会。

誰もが作り笑顔を保ちながら、何となくお互いの名前(ハンドルネーム)を知っているぐらいの間柄で、それぞれ立たされている状況って多いですよね。

そして、賑やかな会話をしている集団にフラフラと参加してみては、当たり障りのない会話をして、時が来たら主催者側に強制的に席替えさせられる。

それに何の抵抗もない人がいます。むしろ、そんな場所が好きだと公言する人もいる。

でも、僕はあの時の、あの孤独に耐えられません。

いつも、そのような人たちを見ては、孤独の耐性が強い人たちなんだなあと素直に感心してしまいます。

ーーー

思うに、僕が感じている孤独からは、本当に深いところで繋がっている感覚が得られない限り、いつまで経っても救われない。

どれだけ人が多くて賑やかなところに自ら積極的に足を運んでみても、それはあの飲み会の孤独を自ら積極的に味わいに行くような感覚に近いのです。

だったら、自分で創作物をつくりだすしかない。

ひとり孤独の中で創作したものがきっかけで、誰かと出会えると、より深いところで繋がっている、分かり合えていると感じることが多いから。

創作物は、まるで鏡のように反射して、自分の目の前に本当に自分が出会いたかったひとを連れてきてくれるんですよね。


だからこそ、絶対に自分に嘘はついてはいけない。その理由は以下にも書いたとおりです。

参照:「視座を共有できるひと」に出会うために、自分に嘘のない表現をし続ける。 https://inkyodanshi21.com/blog/14139/

ーーー

ここまで書いてきて、この「孤独が苦手だから、孤独にひとり創作する」というお話は、


「高度情報化社会は、情報が少ない時代」という話にも似ているなあと思います。

参照:高度情報化社会とは、情報が“少ない”時代。 http://inkyodanshi21.com/lifestyle/4338/

僕が積極的に地方に足を運ぶのも、やはりその圧倒的な情報量に触れたくて、地域や自然の中に自ら入り込んでいる。

そして、この世にはまだまだデジタル化できない情報がたくさんあるなあといつも実感します。

例えば、香り(嗅覚)。いまだにデジタルで再現することはできません。

もちろん自然の中の「静寂」なんかも、デジタル化して共有できない。

ちなみに、最近自分の中で一番情報量が多いなあと感じた場所は、鹿児島県の大隅半島にある「吾平山上陵」でした。

ーーー

このように、より多くを求めた結果、無意識のうちに全く逆のベクトルに進んでしまっている事例が、現代社会ではものすごく多いなあと感じます。

満たされると信じて、その方向に進んでいるのにも関わらず、進んでも進んでも全く満たされないから、さらにそのベクトルに向かってドンドン進んでいってしまうというジレンマ。

それは、まるで人工甘味料のよう。いつまで摂取しても、決して満たされることのない甘味です。

ーーー

だからこそ、本当に孤独が苦手なら、自ら進んで孤独になり、ひとり創作するしかない。

そのことによって、本当の意味で孤独から救われるのだと僕は信じています。

そんなことを考える今日このごろ。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。