「あんなふうにはならないぞ…!」
そうやって、他者の悪い面を見つけたとき、自分はそうならないように気をつけることが良いことだと僕らは幼いころに多くの大人から教わりました。
でも、この考え方が自分を苦しめてしまう諸悪の根源だと僕は思います。
今日は一風変わったそんなお話を少しだけ。
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本当に大切なことは、
「私は、なぜそれを不快だと思ったのか?」
そちらのほうに意識を向けること。
そうすることで、自分が無意識のうちに思い込んでいた「ひとは(私は)こうでなければならない」に対して自覚できるようになるから。
例えば、「他者に迷惑をかけることはよくない」と思い込んでいる自分がいるとします。
そうすると、自分でも気付かぬうちに他者に対してそれを強要し、相手の失礼な言動を不快だと感じてしまうようになる。
この時に、「なぜ自分は相手の言動を不快だと思ったのか」を考えることによって、「あー、自分にはこんな無意識の思い込みがあったのか」と気づけるようになるのです。
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だから、反面教師はやっぱりそのまま、教師です。
自分の行動を見直すための悪いお手本としてではなく、自分の思い込みを見直すための教師。
そう考えてくると、他者にイラッとさせられた時ほど、実はチャンスだと気づけるようになるんですよね。
他にも、相手から期待を裏切られたと感じたときほど、実は大きな成長のチャンスが目の前にあらわれている。
自分が無意識のうちに「こうあるべきだ」と信じ込んでいたものが、手にとるようにわかるようになる瞬間なのだから。
これほどまでに自己の無意識を俯瞰できるチャンスは、他には絶対にないと思います。
これぞ、他者とコミュニケーションを取る醍醐味と言えるでしょう。
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この点、目の前の不躾なふるまいに対して、ジェットコースターのように気持ちの浮き沈みさせられているひとほど、
「自分は絶対にあんなふうにはならないぞ…!」と気負ってしまい、心も身体もガチガチになってしまいます。
だからこそ、人見知りが激しくて、人前では緊張してしまい、何事も引っ込み思案になってしまう…。
そりゃあ、そうですよね。
自分が他者の言動に対して一喜一憂させられているから、他者もきっとそうだと思ってしまう。
自分が他者に対して、少しでも失礼なことがあったらいけないと、自分で自分の首を締めているようなものです。
「これをしたらどう思われるだろう…?不快に思われてしまわないだろうか」
そうやって、どんどん完璧主義に陥っていきます。
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もっともっと自由に生きたいと願うひとは、今日書いてきたように、反面教師だと思うひとに対して、感情で反応するのをやめてみる。
本来、相手の言動そのものは自分に対して何も影響を与えないはずなのですから。(傷害など物理的な接触が伴わない限りは)
自分が心から進んで相手の不躾な態度を受け取ろうとし、感情(心)に直結させることで初めて、それが快・不快へとつながっていく。
だからこそ、感情に直結させて受け取らない。あるがままを拝む、それだけでいい。
そして自分の感情に起きたちょっとした波や起伏の変化の方に目を向けて、その原因を探ってみる。
もっともっとリラックスして、身体をほぐすような感覚で。
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そうやって何事もフラットに拝めるようになれば、他者を反面教師として蔑むのではなく、本当の意味で万物全てが、我が師となるでしょう。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。