陳腐で退屈な教えの代表格と言えば「プラスアルファの魔法」だと思います。

具体的には、報酬以上の仕事をすることの重要性。

この点、多くのひとは常に何かもうひとつ奪えないか(自分が得することができないか)と虎視眈々と狙っています。

しかし、そう思案するのではなく、もうひとつ何か私から与えることはできないか(相手が得できないか)と考えてみる。

それが、もう誰もが聞き飽きたと感じているはずの「プラスアルファの魔法」です。

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この点、僕はこの「プラスアルファの魔法」の効果・効用が大きく誤解されていると思っています。

多くのひとは、この教えは「そのように自らが振る舞うことで、結果的により多くを獲得できるから」だと思っているはず。

先に与える人には周囲の人々が好印象を抱いて、さらに高待遇の仕事や報酬が与えられると。

「押してダメなら引いてみろ」のテンションでこの教えを捉えてしまっている。

でも、実際のところはそうではありません。

自ら実践してみるとよくわかりますが、なによりも自分自身の感覚が大きく変わってしまうことに驚きます。

具体的にどう変わるのかと言えば、「何かが足りない」という欠乏感が完全に消え去り、「すべては満たされている」という感覚になってくるのです。

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そもそも私たちの中に存在する「少しでも得したい」という気持ちは、一体どこからやってくるのでしょうか。

それは、私たちの中に存在する「何かが足りない」という漠然とした不足感からやってくるのだと思います。当然ですね。

多くのひとは日夜目にしている広告や、周囲の人間との絶え間ない比較の中で、常にそんな不足感や欠乏感を無意識のうちに感じとってしまっている。

だからこそ、一体何が当たるのかもわからないコンビニのくじでさえも、「お得だ!」と思ってついつい飛びついてしまうわけです。

コンビニ側にその欠乏感を完全にうまく利用されてしまっているのです。

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でも、この状況下で、私から何かをプラスアルファして相手を満たそうとした場合、「私はすでに満たされている」ということを自らの力で証明したことになる。

言い換えると、「私はいまの状態で完全に満ち足りていて、他者に分け与えることさえもできるのだ」と、私が私に対して、行動を通じて証明したことになる。

どんな過酷な状況下であっても、必ず与えられるひとというのは存在していて、それは『夜と霧』なんかを読むと、本当に痛いほど伝わってくる。

現在のウクライナの国内の中にも、きっとそんな与える人々が少なからず必ず存在しているはずでしょう。

ここは本当に重要なことなので、どれだけ強調してみても構わないと思うのですが、「与えられるのはいつだって、満たされているほう」なのです。

そして、その満たされているか否かという基準は、徹頭徹尾、主観的なことでしかないのです。

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しかしながら、多くのひとは「私にはまだ与えられるものが何もないから」と言いながら「もっと多くを得られるようになったら、私も与えるひとになる」と言い訳してしまう。

でも、与えられるものというのは、決して物質的な豊かさだけに限りません。

何も持たない人間でさえも、自分の可処分時間や感謝の言葉、一瞬の笑顔は必ず相手に与えられる。

つまり、自分から与えられるかどうかは「心の豊かさの問題」であり、現代の日本に住んでいて、与えられるものが何も無いという人間は絶対に存在しないはずなのです。

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同じ余白探しでも、私が奪える(得する)余白を探し続けるのではなく、いつだって私が与えられる(相手が得する)余白を探し続けたい。

そうすればきっと、現状の私がいかに満たされているかが自らの行動を通じて身体的に理解できるようになるはずですから。

もちろん、そんな行為を通じて、周囲の人々の反応も徐々に変わってきて「これもあなたがほかの人に与えてください」と、さまざまなタイプの「豊かさ」を託されるようになってくることは間違いないのだけれども、

そんな変化はオマケみたいなもので、とにもかくにも、自らが満たされていることに自覚的になることが「プラスアルファの魔法」の最大の恩恵だと思います。

先に与えることは、こんなにも私の心に平穏をもたらしてくれるのかと、まずは実践を通じてぜひ感じ取ってみて欲しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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