以前Twitterにこんな投稿をしました。

これと似たような話として「真理はあなたの目の前に広がっている。何も隠されてはいない」という言葉があります。

初めてこの言葉に出会ったときは、その意味がいまいち理解できなかったけれど、年齢を重ねれば重ねるほどドンドン腑に落ちてきました。

僕らに本当に求められているのは、目の前に転がる陳腐で退屈な教えの重要性を再発見し、それを実践して育む力なのだろうなあと。

一方で、何かが隠されているに違いないと思い込んで疑い続ける姿勢が、実は一番騙されやすい。

具体的には「自分がもっとラクをして、うまくいく方法があるはずだ」または「ラクしてうまくいっている人たちがこの世には多く存在して、そんな奴らをなんとかして貶めたい」という欲望をもつ人たちが、搾取したい人たちの一番のカモになってしまう。陰謀論にも簡単にハマっていきます。

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ただ、このように考えてくると「やっぱり地道にコツコツと努力して、世のため人のためになることを行うのが大事なんですね」となってしまい、振り出しに戻る感覚にもなると思うのです。

でも、ここには大きな誤解がふたつ存在すると思っていて。

まず一つは「地道にコツコツと」とは、決して「意志力」の話ではないということ。

どうしても僕らは幼いころから、意志力を用いて我慢することの重要性を聞かされ続けているため、自らの意志力を高めることが成功の秘訣のように感じてしまっています。

でも実際は、意志力に頼らなくてもいい状態、勝手に動き出す状況を自らの生活の中にいかに創り出せるかが、一番重要なことなんですよね。

つまり、我慢しなくてもいい状態、毎回「やろう」と努力しなくてもいい状態。それが、何度もこのブログに書いてきている「習慣」の力なのだと思います。

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また、もう一つの誤解は「世のため人のため」のような「他者に貢献しなければいけない」という思い込み。

確かに社会的な弱者や、地球環境を救うことはとっても尊いことだと思うのだけれど、自己の重要感を満たすための手段として「他者救済」を用いていれば、やっぱりそれはラクして儲けたい姿勢と何も変わらない。

倫理的に正しく見える行為は、利己的ではなく利他的に見えてしまうからこそ、より一層注意が必要だなあと思うのです。

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大切なことは、行為それ自体が自らの純粋な喜びや楽しみにつながっているかどうか。

言い換えると、自らの至福に忠実になって全力で没頭できているかどうか、です。

そのための習慣と仕組みをしっかりとつくり上げ、陳腐で退屈な教えを淡々と実践して育む力が、いま求められているのだろうなあと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となれば幸いです。