コミュニティ運営を長続けていると、人の力はどのようなときに一番最大限発揮されるのかを、常にずっと考え続けるようになります。

この点、まず大前提として、明確に言えることは、個人がバラバラに活動するよりも、何かひとつの目標に向かって、人間同士がお互いに協力し合ったほうがいいことは、間違いありません。

そうやって人類は長い歴史の中で、お互いに協力し社会(共同体)をつくり出して、進化発展してきたわけですよね。

つまり、集団としての力を一番発揮できるタイミングはいつなのかといえば、共通の目標やビジョンに向かって協力し合う場合だといえるはずです。

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ただし、組織が成長し目標を達成する過程で、しばしば資源の不足や、そのことによる争いも起きるわけです。

それは、その活動の中で得られた利益の分配などを巡って、です。

結局、分配するお金や領地が足りなくなって、帝国主義的に領地を広げていくしかなくなってしまう。

これは国家レベルでの帝国主義的拡張だけでなく、会社組織内部での資源競争にも頻繁に見られる現象でもあるかと思います。

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一方で、「じゃあ、お互いに奪い合わずに、常に分け合って助け合おう」という話になると、こっちも次第にジリ貧になっていってしまうわけです。

平等分配や、共同体主義の理念においてもそのような落とし穴が存在しているわけですよね。

具体的には、EUのような共同体では、一部の国が他国を支える形になることになり、このような不均衡は、長期的な持続可能性が問題視されることもしばしばです。

だから、この平等分配みたいな思想も、一見するとものすごく平和そうには思えるのだけれども、それは机上の空論であって、あまりうまくいかないわけですよね。

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じゃあ、第3の道として、一体どうすればいいのか。

ここからが今日の本題になってきます。

どうすれば、人間は協力し合いつつも、誰かがおんぶにだっこのような状態にならず、共にそれぞれが持てる力を発揮できる空間をつくることができるのか。

思うにこれは、未来の贈与する対象を明確に定めて、次の世代にパスをするように、各人が自発的に動こうとしているときに、人々は一番強く結束し、お互いに奪い合おうともしなくなるのではないでしょうか。

僕がこのときに、いつも頭の中に思い描くのは、運動会の「大玉おくり競走」のようなイメージです。

大玉おくりをするときに、人々はしっかりと受け取って、次に送ることだけに集中しますよね。

このときに、資源分配を巡って仲間割れをしたり、自分の負担割合に対して文句を言い合ったりもしない。

もちろん、サボろうともせず、自分ができる範囲で、ボールをいかに円滑に次のひとたちに送るかを各人が考えるはずなのです。

なぜなら、次に贈ることが全員のミッションだから。

このときに、自らの利益を確保する利己心や、集団内の他者に尽くそうという利他心とか、そういう話は一旦度外視になる。

それと全く同様のことが、社会の中でも起こり得るなと思うのです。

そして、このときの人間の結束力って他には存在しないなあと思います。

つまり、このような何かを受け取って、そのまま送るというときが一番健全な状態が保たれるのではないかと思うわけです。

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この点、どうしても僕らは、個人の能力の最大化や、その利益分配が一番多くなる方法を学び実践するための集団やコミュニティをつくり出してしまう。

学校組織や会社なんかは、明確にそういう場所ですよね。

それぞれに欲している利己的な未来像があるからこそ、そのためにお互いに協力しようというような。

もしくは、そのような利己的な振る舞いに違和感がある人々が、同じ共同体のメンバーのために利他的に振る舞うことを強要し合って、平等分配の方法ばかりを議論しがち。

これは、いわゆる資本主義と社会主義の対立みたいなものです。

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だから、オンラインのコミュニティやオンラインサロンにおいても、個人の能力を高めるために協力し合う場所か、もしくはメンバー同士で助け合うような平等主義的な場所になりがちなのです。

でも、長らくコミュニティというものを見てきた人間からすると、きっとどちらも、あまりうまくいかないんですよね。

そうではなくて、過去から、僕らに送られた贈与を正しく受け取ろうとして(発見しようとして)、それを次の世代に正しくそのまま贈っていこうとする。

このような共同作業を行おうとする過程こそが、きっと何よりも重要で。

そのために一緒に力を尽くそうとしてみる。

繰り返しますが、このときに、ひとは一番協力的になるし、全員の力がマックスに発揮されると思うんです。

「自分たちは、こんなにも受け取ってしまっていたのだ」と自覚的になりながら、自分たちの次の世代に少しでも付加価値をつけて、そのまま渡していく状態を目指そうとするとき、誰の何も奪われない。

これは本当に不思議なことですが、本当にそう思います。

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さて、このような時間的な流れをいちばんわかりやすく、そして人間に強く自覚させてくれる、その最小の集団単位が「家族」という共同体なんだろうなあと。

きっとだからこそひとは、いつの時代もひとは家族をつくろうとする。

というか、家族がそういう意味において明確に役に立つから、「家族」という組織自体が現代まで続いてきたというふうにも、言い換えることもできるかもしれません。

なぜなら、原理上、家族というものが解体されていたとしても、世の中は実現することができたはずなのに、実際にはそうなっていないわけですから。

ということは、そこに一定の機能や意味があると捉えてみたほうがいい。

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人間の生殖能力と、家族は表裏一体だと信じるひとは多いかもしれないけれど、これは別に、必然でつながるわけでもないですからね。

極端な話、人間だってアリとかハチとかみたいな組織構造を構築するような社会だって、原理的にはあり得たわけです。

でも、最小単位の「家族」は今も存在する。

この家族みたいなものを、どうやってコミュニティ単位、共同体単位で大きな集団にも適用していくのかが、今とても大事な視点となっているんだろうなあと。

コミュニティや集落共同体も、もともとはそういうものだったはずなのですから。

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ただ、資本主義のもと、それらがドンドン解体されていった歴史が、百年に渡って存在していたというだけで。

よく語られる話は、そのような家族を解体したほうが、資本主義がより活性化したというお話です。

たとえば、電話やテレビだって一家に一台で十分だったはずなのに、今やそれらが総合的に組み合わさったスマホという端末を、一人一台持たされているような世の中です。

でもそうすることによって、経済はドンドンと活性化していく。つまり、それは営利目的の企業から、僕らが巧みな広告によって無意識に買わされているというふうにも見えなくはないわけですよね。

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最後にまとめると、先人たちからの贈与を受け取り、それを未来の世代にパスしていくために集うための空間を、いま再びつくり出すためにはどうすればいいのか。

もはや、会社は公器だと明言する偉大な経営者は世の中から一切いなくなり、国家も政治家に私物化され、地域は過疎化し、徐々に消滅に向かいつつある。

今一度、しっかりと先人たちから受け取って、自分たちでも何かを積み重ねて、次に贈る、それこそが自分たちのミッションだとして捉えられるコミュニティを作り出さないといけないなあと思っています。

そしてこのことに対して、真の意味で共感してくれるひとたちに集まってもらうためには一体どうすればいいのか。

具体的には、どのような発信をし続けて、どのような活動をし続けることが、理想的なのかということを、これからも淡々と考えながら、しっかりとこの場においても実験していきたいなあと思います。

なかなかに変な話だと思われたかもしれないけれど、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。