最近よく思うことは、インターネットの力によって情報が民主化されたがゆえに、逆に広く分断が進み、さらに情報自体も壁の中だけで語られることが多くなったなあと思います。
「いやいや、逆じゃない?」って思う方も多いと思います。
でも実際には、このようなことが今の世の中では起きているように僕には見える。
それは一体どういうことか?
今日はそんなお話を少しだけ書いてみようかなあと思います。
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インターネットが広く普及し、SNSも一般化して約15年。
本来であればきっとトーマス・フリードマンが書いた『フラット化する世界』のように、世の中の垣根は無くなっていくはずだったのだと思います。
でも実際には、そうやって情報が民主化されて一般的に広くシェアされるようになると、大抵の情報というのは、誰か(往々にして社会的弱者と呼ばれるような人々)の足を踏む性質があるということがあるということが、周知の事実になったわけですよね。
そして、厄介なことは、その当事者ではない人間、まったく関係ない第三者が口を出してきて、そこに文句をつけてくるということが、ハッキリとわかったのがここ10年だと思います。
佐々木俊尚さんの言葉をお借りすると「マイノリティ憑依」をするひとたちが本当に多かった。
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世の中には、ただひたすらにポリコレ棒のようなもので他者を叩きたいだけのひとが意外にもめちゃくちゃ多かったということが、ここ十数年で一番ハッキリしたことだと思います。
しかもそれは、欲望相関性原理のような話で、誰かを「正義」で叩きたいという欲望を持っているひとからすると、他人が足を踏んでいるように見えるような構図というのは、どのような構造内においても見出すことができて、格好の標的となるわけです。
だから、そういう面倒くさいことになることがわかっているひとびと、そして別に広く一般的にする必要がない情報は、そもそもオープンな場では語られなくなった。
同じインターネット上でも、有料メルマガや、クローズドな空間内だけで静かに情報がやり取りされるようになったわけですよね。
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いやいや、他人の足を踏んでいて悪いこととしているんだから、炎上させられて当然だろう?と思う方もいるかもしれません。
でも、それは「問い方」によるわけです。
今、何をテーマに対話をしているのかによって、その発言は正にも悪にもなる。
そして、文脈を読める人は、その問いの違いをちゃんと把握する。
でも、受動的に生きているひとたちは、すぐに自分に取って都合の良い問いや議論のテーマにすり変えてしまうわけです。
たとえば、以前読んですごく面白かった東浩紀さんの少子化の話はすごくわかりやすいかと思います。
『観光客の哲学 増補版』から少し引用してみます。
たとえば少子化問題を考えてみよう。ぼくたちの社会は、女性ひとりひとりを顔のある固有の存在として扱うかぎり、つまり人間として扱うかぎり、けっして「子どもを産め」とは命じることができない。それは倫理に反している。しかし他方で、女性の全体を顔のない群れとして、すなわち動物として分析するかぎりにおいて、ある数の女性は子どもを産む べき であり、そのためには経済的あるいは技術的なこれこれの環境が必要だと言うことができる。こちらは倫理に反していない。そしてこのふたつの道徳判断は、現代社会では(奇妙なことに!) 矛盾しないものと考えられている。その合意そのものが、ぼくたちの社会が、規律訓練の審級と生権力の審級をばらばらに動かしていることを証拠だてている。国民国家は出産を奨励できないが、帝国は奨励できる。それが現代の出産の倫理である。
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議論や対話の結論だけをみて、マイノリティの足が踏まれていることを主張するというのは、帰謬法と同様で、実は必ず可能となる。
論破というのは本当に誰にでもできるのです。
だから、問いの共有ができていないひと、そのコンテキストを誤読しないひとたちの場でしか、大事なことが議論されなくなったのも、当然のことだと思います。
そのような、自らで考える力がある人達だけに向けられた壁の内側で静かに情報がやり取りされるようになった。
でも、これというのは、決して隠されているコンテンツではないんですよね。誰でも、アクセスできるところには、ちゃんとある。
自ら扉をあけて、中に入ってきたひとたちにだけ届くものとなっている。まちなかの雰囲気の良い飲食店なんかと一緒です。
そこに場末のチェーン店で管巻いているひとたちは入ってこない。
もちろん、その扉も隠されているわけではなく、ものすごくあたりまえのように存在しているわけで。
ただ、本気で調べた人たちだけに、届くような形で配置されているだけです。逆に広く拡散されていかないようにうまく調整されている。
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この点、昔は、マスメディア(テレビや雑誌)に出るしか情報の伝達手段がなかったけれど、今はいくらでも、バーチャルの路地裏みたいなものをつくることは可能です。
だから、むしろ、いかに届かせないかということのほうが大事だったりもするわけですよね。
犬やネコでもインフルエンサーになれる時代においては、押し上げられる力にむしろ抗って在野にとどまり続けることのほうが圧倒的に価値があるという話にも、非常に良く似ている。
インターネットは、網の目上に広がっているわけだから、正しく順序を追ってくれば、探した人には必ずたどり着けるようになっている。
インターネットの真の力、情報の民主化っていうのは、そうやって誰でも適切な手段を講ずればアクセスできるようにしてくれたところにこそある。
ここに、身分の差別は存在しません。
だから自分から取りに行こうとするひとには、ドンドン優良な情報を得ていくし、一方で、受動的に入ってくる情報だけに意識を向けているひとは、世の中の炎上案件しか目に入らなくなる。
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このように、様々なコミュニティを渡り歩きながら、実際に現地に赴き、自分から情報を拾いに行く必要がある。
待っていても入ってくるのは炎上の話しかないわけですから。
法律の用語で「権利の上に眠るものは、保護に値せず」という言葉がありますが、権利行使をした人間にのみに与えられる構造というのは、間違いなく存在する。
聖書の「求めよ、さらば与えられん。」という話そのものです。
自ら能動的に取りに行ったかどうかによって、得られる情報は本当に大きく変わってくる。僕が色々なコミュニティを渡り歩くのも、それが理由だったりします。
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さて、こういう話において、自分は既に特権階級の仲間入りをしていて、動く必要がないと思うひとも、エリートの中のひとたちには結構多い気がします。
しかし、どれだけ客観的に良質な情報が手に入る場所にいたとしても、ひとつの場所にいると、それが常識となり、その違いがわからなくなる。
というのも、情報というのは絶対的な価値がある情報なんてこの世には存在しないからです。
相対的な比較の中で、情報というのは磨かれる。比較している最中に価値のあるものに変遷していくわけですよね。
もっというと、まったく別々のコミュニティで語られる情報の同じところと違うところ、その差分や差異みたいなものを見せつけられたときに、「あー、だからか!」という発見があるんです。
また、情報それ自体の希少性や価値というのは、「とき」や「タイミング」にもよりけり。
だから、常に多様の視点が必要になる。見比べることが本当に大事なのです。
そして、大抵の場合、ヒビが入り始めるのは、末端のほうから。靴磨きの少年の話と一緒です。早いタイミングから、そのことに対して自覚的にならないと完全に逃げ遅れてしまう。
日本の中枢にいて、タワマンの最上階に住んでいるとその微細な変化に気づけない。
様々な場所を渡り歩いて、現地に何気なく落ちているものに、触れないとその本質はわからないんだと思います。
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もちろん、今日のような話を突き詰めていくと、陰謀論めいたものにハマる危険性はかなり高くなるので、注意が必要。
「ここだけの話〜」ほど、耳を傾けてはいけない話はない。宝箱は僻地にあることは間違いないのだけれど、その宝箱は一定の確率でミミックである可能性があることに、非常に良く似ている。
ここのリテラシーを磨くためにも、さまざまなコミュニティを渡り歩く必要もあるといえるのかもしれませんね。ひとは、経験値が少ないからこそ、それっぽい話に騙される。常に疑いながら、様々な知見に触れていることが何よりも重要だなあと。
誰かの視座を通して、理解した気になるのではなく、自分の目と耳で聞いて確かめてみること。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。