いろいろなひとの「なりたい自分像」みたいな話を聞いていると、今の自分に何を付け足していきたいのか、みたいなことが語られることが非常に多いなあと思います。

でも、そうじゃなくて、まずは自分がなりたい完成形に完全に変装しちゃえばいいのになあと、思うときが結構あります。

つまり、今の自分に何かを少しずつ付け足して、ちょっとずつ成長するためにはどうすれば良いのかではなくて、まずは先に理想的な枠をつくって、そこに自分が合わせていくにはどうすればいいのか、という逆の方向から考えてみることです。

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これは、もちろんそれだけではうまくいかないですし、そういうハッタリみたいなものが従来は幅を利かせていた中、胡散臭いセミナーみたいなものもたくさん世の中には蔓延ってしまったがゆえに、その悪事なんかもバレてしまった。

だから、ここ10年ぐらいは、そのようなタイプの言説が鳴りを潜めていたのも事実だと思います。とはいえ、もともとはそっちのほうが主流だったはずなんですよね。

たまたま、日本全体の不景気の流れやSDGsみたいな潮流のもと、等身大で身の丈に合った「足るを知る」という状態の話が、現代は主流派の意見になっているだけで。

それが間違っているとは思わないですしどちらかと言えば僕もそちら側の意見に賛同していますが、でもそのような考え方ばかりに固執していても、停滞するばかりで自らの道が拓けていかないのも、一方で間違いない。

やっぱり両方の力を、うまく場面ごとに活用することが本当の意味で重要なことだと思います。

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この点、たとえば、外国語を喋れるようになりたかったら、書店で入門編の書籍を何冊も買い込んだり、仕事終わりの駅前留学を試みたり、ChatGPTと外国語でやりとりするよりも、やっぱり現地に飛び込んでしまうのが一番効率的で早い。このような話なんかにも非常によく似ているかと思います。

まずは枠を定めて飛び込んでしまったら、それに合わせて、自らが成長し生活するしかなくなりますからね。

ほかにも、スタートアップの経営者が、先に数億単位のお金を調達してしまうみたいな話にも近いかもしれません。

彼らには、決してその器が最初から備わっていたわけではなく、先にそのチャンスが降ってきて、なんとかそれに食いつくように、振り落とされないように、自らを合わせていったら、最終的には辻褄がなんとか合って、自然と釣り合っていったというのが実際のところだと思います。(もちろん、その背後には屍がいくつも転がっているのは事実ですが。)

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つまり、理想によってつくられた枠に、自分が合わせるにどうすればいいのかを徹底して考えることが、成長の本質なのかなと。

そうやってストレッチをしているうちに、本当に自分自身が肥大化していくという流れというのは、間違いなくある。

実際、往々にして人間の成長というのを客観的に眺めていると、そんなふうに飛び込んでしまって成長しているひとのほうが、大半だと僕は思います。

逆に、身の丈を意識しすぎたひとは、いつまでも経っても同じところをグルグルと回っていたりもする。仕事だけでなく、生活や暮らし自体も、まったく変化していかない。

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じゃあ、この点におけるネガティブな点は一体何なのかと言えば、必ず自他ともに認めるイタイ時期みたいなものがあることなのかなあと。

いわゆる大学デビューみたいな状態というか、本当に空理空論しか語れない空回りの時期が必ずある。でもそれって本当に一瞬でしかないはずで。

ただ、大抵のひとは、自分が自分自身に向ける否定的なまなざしに耐えられなくなって、やめてしまう。

少し努力が大変な時期だったり、周りから何気ない傷つく言葉を言われたりした瞬間に、「自分はそんなガラじゃない」というふうに自らを過小評価して、です。

この脱皮期間みたいなものを、ちゃんと通過する覚悟があるかどうかが、強いて言えば一番問われているように思うのですよね。

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そういう意味で、「装い」もっというと、「変装」みたいなものって、意外と功を奏している部分は大きいなと思います。

一番簡単に、枠に合わせて自らを変えられるものでもありますからね。

以前もご紹介したことのある書籍、『橋本治と内田樹』という対談本の中で、橋本治さんが「一度自分を消さないと、服は似合わないんだ」というお話をされていました。

だから、橋本さんは、歳を重ねると服は苦手になっていったという話をしていたのだけれども、これは逆に言えば、自分を消さないと服は着られないということでもあると思うんですよね。

実際、自分自身の体験や、周囲の洋服好きなひとたちを見ていても、本当にそう思う。

別に、彼らは最初から中身が優れていたわけではない。

むしろ、外側のラベリングによって、その集団の仲間に入れてもらって、仲間うちで揉まれているうちに、その集団の慣習やルールを身に着けいくという状態は間違いなくあるかと思います。

その中でも、最初からセンスや才能を持っていた人間が頭角を現してきたときには、「あいつは最初からすごかった」と言われるようになる。

でも、他の人間も人並み程度のポジションにつくことはできる。つまり、やっぱり先に変装ありき、だと思うんですよね。

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これは、以前もご紹介したことがある話なんですが、養老孟司さんは、何かのトークイベントで「着物を着ている女性は好きですか?」という質問に対し「着物自体には興味がないけれど、着物を着ているひとの所作は好きだ」みたいなお話をされていました。この話にも、とてもよく似ているなあと思います。

所作が変わることによって、ひとは「着物が似合うひと」になっていく。

とはいえ、着物を着ても、様になるような所作を身に着けてから着物を着ようと思ってみたところで、そんなことは原理的に不可能ですよね。

洋装を身に着けながら、和装の振る舞いなんか、練習できるわけがない。

だから、やっぱり先に、着物を着てみなければいけない。そして、最初は不器用ながらも、毎日着用して必死で自分を合わせていくしかない。

そのうち周囲のひとにも、あの人は和装が似合う人だというふうに認識されるようになっていく。そして、そのひとたちを鏡のように見立てながら、自己認識も次第に変化していく。

きっと、本来はこの順番なのだと思います。

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このように、未来になりたい状態の因果の因をおいて、その補助線を現在まで引っ張って来ることが本当に重要で、それが変装だったりするんだろうなあと。

「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」とよく言うけれど、だとすれば甲羅の形を変えるところからということのようにも思うわけです。

もちろん、形から入って何も努力をしなかったらまったく意味がないですし、同時に血がにじむような努力も必要なことは、言わずもがなです。

ただ、何か目指す先、なりたい自分があるならば、そこに変装するところから始めるのが一番手っ取り早いと思うので、現代のような流行や潮流の中で、枠を先に作り出すことの効果効能が軽んじられてしまうのは、あまりにもったいないなあと思っています。

現代では、意外と語られなくなってきているような価値観でもあるからこそ、地味にものすごく大切な観点だと僕は思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。