昨日、こんなツイートをしてみました。


これを読んで、「自分の可能性を信じた結果、誤った方向に進んでしまったらどうするんだ!」

そう思った方もいるかと思います。

しかし、その「誤った」感覚というのが非常に厄介なのだと思います。

今日はそんなお話を少しだけ。

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誤った方向があるということは、きっと「正しい方向」があるはずだとも考えているわけで。

それは一体どんなものなのでしょうか。

この点、私にとって「正しい方向」だと思うものは、自分にとって都合の良い成長発展を指しているのだと思います。

「いいや、オレは誠心誠意、相手のためだけを思っている!」と言ってみたところで、

それは、相手が社会を歩むうえで、相手にとって都合のいい方向があると、自分が勝手に信じ込んでしまっているだけです。

でも、残念ながらそんなものは、ない。

これは本当にありません。

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だけれども、相手のことを強く思えば思うほど、それがあるものだと錯覚し、相手に対峙してしまう。

それは、親が子どものことを思えば思うほど、安心安全な道を進んで欲しいと願うゆえに、何でもかんでも助言したくなることにとてもよく似ています。

優しさや老婆心ゆえの思いやりの表れなのでしょう。

でも、そんな時こそグッと踏みとどまり、自分ができることは、相手をあるがまま認めて、「自分はあなたのドリームキラーではない」ということを感覚的に理解してもらうことだけ。

そして、自発的に自分自身に内在する可能性を信じてもらうことまで、です。

本人がその可能性を信じた結果、どんな方向に進むのかを決めるのは、本人次第。

行先は誰にもわからないし、誰にも強制することはできません。

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本人がその行先を自発的に選択する中で、もしその決定権の行使の仕方に悩み、助言を求めてきたら初めて、自分に何かしらの発言権が与えられる。

あるがまま認める対人関係がそこにちゃんと築かれていれば、自然と相手のほうから聞いてきてくれるはずです。

でも、この発言権が与えられたときであっても、自分ができることは、あくまで「参考資料の提示」に過ぎないのだと思います。

自分が見てきた世界をできる限り、わかりやすく相手に共有するほかない。

決してそのことに同意を求めたり、無理に説得してはいけないのだと思います。

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でもそうやって関係性を築いていれば、必ず他者に聞くこと、つまり「自ら学ぶことの楽しさ」を発見してくれるはず。

先人たちが必死で残してきてくれた道を、自分から積極的に覗きに行きたくなる。

そして、そこで知り得たことを自分自身でも実行したくなるはずです。

その実践が一筋縄でうまくいかなければ、今度はなぜうまくいかなかったのかを、必死で考えるようになる。

そしてまた新たに学び、実践する。

自分の可能性さえ信じ続けることができていれば、この無限ループがいつまでも続くことでしょう。

身近な人間が相手のためにできることは、このループ(循環)を遠くから見守ることだけ。

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そう考えると、good luckや、bon voyageや、一路平安など、各言語に必ず存在する「良い旅を」という言葉は、本当に素晴らしい言葉だなあと思います。

相手のことをあるがまま受け入れて、その旅路を祝福するために贈ってあげれる、これ以上ない言葉。

そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。