AIに溺れてしまった文章のつまらなさ、こういうのは遅れてやってくるなと思います。
最初のうちは気づかない。
なんだったら、最初は「そのひとの文章をコンスタントに読めるようになって、ありがたい」とさえ感じる。
でも、AIを使い続けていると、次第にひとは考えなくなっていくということなんだと思います。
それがあまりにも楽だから、自分で考えなくなってしまう。
1時間も2時間もかけて書いていた文章であっても、AIを用いることによって、見た目はそれと非常によく似た80点ぐらいの文章を数分で出力できてしまう。それに慣れてしまうと、もうバカバカしくてAIを使わずに文章を書けなくなってくる。
今、そういうひとがとても増えているように思います。
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でも本当は、書くという作業、そのなかで「考える」という時間を確保していることに、意味があったはずで。
その時間が常に存在していたから、そのひとの文章はいつもみずみずしくておもしろかったはずなのに、その作業がスコンと抜け落ちてしまうから、一気につまらなくなる。
表面的には確かにそのひとの文章のようであっても、中身は空っぽ。
そんな文章が、世の中にものすごく増えてしまったなあと。
言い換えると、これまでちゃんと考える時間をとってきたんだろうなというひとたちが、もう考える時間を確保していないことがはっきりとわかるタイミング、それが2024年末現在ということなのでしょうね。
AIが爆発的に普及して、1年半ぐらい経過した今ぐらいのタイミングになって、それがハッキリとあらわれてきている。
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特に、最初から出版することが決まっていて、締切があるタイプの文章や枠を埋めるタイプの文章はそうなっている場合が多いなあと感じます。
たとえば最近ガッカリした体験だと、毎回出版されることを楽しみにしている本というかブックレットシリーズが、今作は明らかにAIによって書かれていることが漏れ伝わってきて、なんだかものすごく残念な気持ちになりました。
対象読者的に「AIを日常的に使っていないひとには、わからないだろう」という判断だったのかもしれないですが、AIを使っている側の人間からすると、すぐにわかってしまう。
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それが見破られて、そのようなビジネス的な書籍や文章が、いま勝手に自滅していっていると思います。
それは当然のことだし、だからこそ、このご時世には逆説的に、文学フリマのような場所がドンドンと盛り上がっているんだとも思う。
なぜなら、そこには文章を書くことそれ自体が本当に好きだってひとたちが集まっているし、そういう文章を読みたいという人たちだけがそこに集まってるわけですから。
AIを使って、枠を埋めるように書いている、そんなひとたちは、そのような場所でわざわざ文章を書こうとしない。
それは端的に「金」や「ビジネス」にならないからです。
良く言えばクラフト感や手作り感、悪く言えば素人感やごっこ遊びにも近い。でもその分、熱量は非常に高い。
そういう文章を求めて、文フリに行く人々がドンドンと増えて、今年は過去最高の入場者数になったというのは、とても納得感があるところだなあと。
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今インターネット上でそんな文章を読みたいと思ってみても、見分けることがかなり難しい。
特にnoteのような場所では、完全にわからなくなってしまいました。
noteのコンテンツは、実際かなりAIに侵食されているでしょうし、noteの企業自体も、AIの活用を推奨していますからね。
逆に言えば、このご時世にわざわざ紙に印刷してまで自費出版で本をつくりたいひとたちは、間違いなく自分で時間や労力を惜しまずに手書きで書いているはず。
その書くという作業によって自分自身が癒やされているひとたちの文章なんだろうなあという予測可能性もはたらくから、文フリに人が流れる。
とても時代に合っているし、理に適っている盛り上がり方だなあとも思います。
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さて、このガッカリ感ってなにかに似ているなあと思うのですが、これはきっと飲食店のフランチャイズ化みたいなことにとてもよく似ているなと思う。
1時間かけて出来上がる100点のメニューと、5分で出来上がってしまう80点のメニュー。
その両方を同時に見せられたら、やっぱり後者の量産体制を選びたくなるのは、ビジネスマンとしては当然のことだと思います。
そして、その80点のほうを効率よく作れるように仕組み化やマニュアル化をして、全国に広げていくのがフランチャイズというビジネスだと思います。
そして、最初に1店舗目を構えたときの「儲けたい・有名になりたい」という出店者の野望も見事に果たすことができてしまう。
でも、そのひとが作り出す野望に満ち溢れた100点満点に熱狂していた人々は、その時点でガッカリしてしまう。
人は、常に高品質な平均的なものを求めるわけじゃなくて、たとえハズレがあったとしても、100点満点を求めているわけですからね。
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このような話を考えるたびに、どうしても僕が思い出してしまうのが、村上春樹の小説『国境の南、太陽の西』。
この小説の中に出てくる「ジャズ・ミュージシャン」に関するお話です。
この小説の主人公は、東京で2店舗のジャズ・バーを経営している優秀な若手実業家。そんな彼が、自分がお店で雇うジャズミュージシャンたちの演奏を眺めながら語りだすシーンで「最近のジャズ・ミュージシャンはみんな礼儀正しくなったんだ」と言います。
昔は、ジャズ・ミュージシャンといえば、みんなクスリをやっていて半分くらいが性格破綻者だった、でもときどきひっくりかえるくらい凄い演奏が聴けたんだ、と。
そして、以下のように続けて語ります。
「まずまずの素晴らしいものを求めて何かにのめり込む人間はいない。九の外れがあっても、一の至高体験を求めて人間は何かに向かっていくんだ。そしてそれが世界を動かしていくんだ。それが芸術というものじゃないかと僕は思う」
これは本当にそのとおりですよね。まずまずの素晴らしいものを求めて、何かにのめり込む人間はいない。
でも、この小説の主人公は、それがわかっていても、そうしない。なぜなら、彼はもう経営者だからです。
さらに続けて、彼は少し寂しそうに以下のように語ります。
「でも今は少し違う。今では僕は経営者だからね。僕がやっているのは資本を投下して回収することだよ。僕は芸術家でもないし、何かを創り出しているわけでもない。そして僕はここでべつに芸術を支援しているわけではないんだ。好むと好まざるとにかかわらず、この場所ではそういうものは求められてはいないんだ。経営する方にとっては礼儀正しくてこぎれいな連中の方がずっと扱いやすい。それもそれでまた仕方ないだろう。世界じゅうがチャーリー・パーカーで満ちていなくてはならないというわけじゃないんだ」
そして、実際にこのような経営者マインドに陥った結果として、ビジネス的には大成功をおさめる主人公なのですが、そんな彼が最終的にどのような末路を辿るのか。
それが気になる方は、ぜひ直接本書を読んでみて欲しい。本当に面白い本です。
最近、オーディオブック化もされたばかりで、僕も早速聴き終えましたが、本当に大変素晴らしい作品となっています。
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話をもとに戻すと、AIによって書かれる文章もこれとまったく一緒だなあと思います。
最近のnoteを書くブロガーやライターは、みんな礼儀正しくなった。少しでも何か落ち度があったりすると、すぐに炎上させられてしまうから。
でもその結果、ウェブコンテンツでひっくり返るような経験は、もうほとんどなくなってしまった。
ただ、だからこそ、今は余計に「九の外れがあっても、一の至高体験」を作り出せる人間のほうに価値が出てきたように思う。
それがきっと、世界においてはトランプやイーロン・マスクだと思われているのだろうし、文学フリマに人々が向かう理由でもある気がしています。
文学フリマで出品された文章は、まず炎上することはないわけですからね。
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もはや、「80点」が評価される世の中じゃなくなった。
平均以上であることは、ものすごい苦労が背後にあった時代も間違いなくある。でも現代において、平均以上というのは、放っておいても大手のチェーン店や大手コンビニがいくらでもつくってくれるし、芸術やアート、文章の世界においても、もはや生成AIが作り出してくれる。
だとすれば、やっぱり大事なことは、たとえ九の外れがあっても、一の至高体験を求めて、創作活動を行ってみること、人々は今それを必死で探し求めているということだと思います。
繰り返しますが、トランプ現象も、兵庫県知事選も、陰謀論に熱狂する人々も、文学フリマもすべてこの似たような無意識の欲求のあらわれだと僕は思う。
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なにはともあれ、5分で終わることを、1時間かけて自分で実際に書くという作業を通して考えてみる、その作業を通して思考を深めることが、本当にいかに大事になことなのか。
今ぐらいの時期になってきて、やっと腹落ちしてきたので、今日のブログにも書き残しておきました。
いつもこのブログを読んでくれているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。