Wasei Salonの中では、毎年この時期になるとアドベントカレンダーを開催しています。


テーマは、毎年変わらず「この1年の”はたらく”を振り返ろう」という内容。

2019年の年末ぐらいから始めていたような気がするので、今年でもう5年目ぐらいになるはずです。(曖昧)

ちなみにアドベントカレンダーとは、クリスマスまでの期間を数えるためのカレンダーで、「到来」を意味するラテン語に由来し、イエス・キリストの誕生を待ち望む期間を指したそうです。

この風習がソフトウェアエンジニア業界に取り入れられ、12月1日から25日までの間に毎日ブログ記事を執筆してクリスマスを迎えるという形に変化したとのこと。

ーーー

そんなWasei Salonのアドベントカレンダーですが、今年はいちばん埋まるのが早かったです。

また、実際に執筆はしなくても、このみなさんの一連の投稿を読むことを楽しみにしているメンバーさんも多いはずです。もちろん僕もそのひとり。

先月、この募集が早々に埋まったあとから、「なぜ自分はこんなにもアドベントカレンダーの投稿を楽しみにしているんだろう?」とずっと考え続けていたので、このあたりで一旦、今の自分の中にある仮説を書いてみたいなあと思います。

ーーー

この点、アドベントカレンダーに投稿されるメンバーそれぞれの投稿は、各人の1年を振り返る内容であって決して何か客観的に有益な情報であるわけではありません。

もちろん、わかりやすく何かに役に立つ話でもない。

また、この時期には、noteには似たようなコンテンツが読み切れないほど投稿されているわけです。でも、そちらは一切読みたいとは思わない。

この場に投稿されるブログだからこそ、読みたいなあと思わされる。

じゃあ、その理由とは一体なんのか。

それはきっと、ゆるやかにつながるコミュニティメンバー同士で、どこか他人事、どこか身内、そんな”ゆらぎ”や”あわい”みたいな関係性の中で読むことに、おもしろみを感じているんだろうなあと思います。

そして、これがまさに、昨日の話にも見事につながるなあと思ったのです。


ーーー

具体的には、AIが侵食していない場所、その価値がいま爆上がりしているということでもあるのだと思います。

というか、AIが侵食したところで、それは意味や価値をなさないこと、そうやって無効化されることに大きな意味があるんだろうなあって。

アドベントカレンダーのブログを書くにあたって、AIに書かせることも可能だけれど、それこそが一番ムダな、生産性の低い作業であるわけです。

そんなことをする時間があったら、アドベントカレンダーなんかには参加せずに、残業でもして、会社から残業手当をもらったほうがいい。(もちろん、考えを整理する段階においてAIにアシストしてもらうことはありだと思います)

だって、そうやって書いたところで、この場において何かわかりやすい経済的メリットが得られるわけではないわけですから。

ーーー

書き手にとっての一番のメリットは、この1年のはたらくについて丁寧に振り返り、自己と向き合う時間、それを確保することにこそ価値があるはずですし、

一方で、読み手にとっては、そうやって同じコミュニティに属するメンバーが真摯に振り返って書いた内容だと思うから、貴重だと感じて丁寧に読みたくなる。さらに、この1年のあいだ、付かず離れずの距離感で、なんとなくそのひとの活動を見てきたからこそ、感じ入る何かもあるはずで。

ある種の”物語”の共有でもあるわけですよね。誤解を恐れずに言えば、派手ではない、静かなリアリティショーでもある。

つまり、昨日も語ったAIが侵食していない文学フリマのその魅力、インターネットの最後の砦みたいなものが、このオシロというクローズドの空間内においても見事に発揮されているなあと思います。

ーーー

このように、もはやオープンの世界、具体的にはビジネスや生産性や効率などが求められる世界においては、そうじゃないものの方に価値が宿り始めている。

そちら側がドンドンと先鋭化していくからです。

これは、ユニクロや無印、イオンモールやウーバーイーツが進化すればするほど、逆説的に、手仕事や民芸、横丁や昔ながらの商店街に再び価値が宿り始めるみたいな感覚にもとても良く似ている。

ーーー

そして、まったく同じような話が「経済合理性」だけではなく「リベラル」や「政治的正しさ」においても言えることだなあと思っています。

こちらも非常に重要なポイントです。

サロン内でAIを使って生産性を高めたところで意味がない、それが無効化される世界。それとまったく同様の構造において、この場において「政治的正しさ」を掲げても意味がない。

ここでは、どれだけ本音ではなく「建前的なリベラリズム」を語ったところで意味をなさないのです。

それは、リベラリズムや政治的な正しさが、直接的に否定されるとか批判されるとか、そういう意味ではないので、そこはくれぐれも誤解しないでいただきたい。

そうじゃなくて、ここで真に意味を持つことというのは、自己と向き合い、本音を語ることのほうだということです。

もちろん、その上での考えに考え抜いたキレイゴトなら、大歓迎です。(先日の僕の有料配信インタビューの中の最後のまとめみたいな話も、キレイゴトだけれど、全力で本音でした)

だけれど、そうじゃなくて最初から社会的に評価されることを求めるうえでの、建前としてのキレイゴトなんかは誰も求めていないし、ソレで得られる経済的メリットみたいなものも、ここではまったくないわけです。

無価値化されるというのは、そういうこと。

ーーー

今のnoteには、そんなコンテンツが山ほど溢れているし、そこに欺瞞が満ち溢れているから、揚げ足を取られて、炎上させられてしまうということでもあると思います。

それよりもむしろ、それぞれの本音を、それぞれに言葉にしてみること。

当然、各人によって、言語化の精度や解像度なんかも異なるわけだけれど、その客観的な違いさえも、一切意味を持たないわけです。

「あー、このひとは自己と真剣に向き合い、社会に対しても決して背を向けず、しっかりと自らで問い続けているな」と思う何かが伝わっていることに、とても価値があるはずで。

実際、僕はそのような視点で眺めています。

そのうえで、自分の歩幅に合わせた形で「私の一歩」を各人が踏み出しているひとたちのコンテンツが日々公開されているからすばらしいなあと思うし、これだけ楽しみにしている理由でもあるんだろうなあと。

ーーー

そもそも、建前としてのリベラリズムの中にこそ、承認欲求が肥大化する余地がある。

それは本人が悪いというよりも、メディアやSNSの構造的にそうなっているということだと思います。

その時に本音を隠した建前としてのリベラリズムを掲げることが、一番タイパやコスパが良い。SDGsのお題目に合うような事柄を旗印に、笑顔で「はいよろこんで、あなたがたのために」って言っていることが、社会的には一番ウケが良い。

でも『ダンス・ダンス・ダンス』じゃないけれど、「踊るんだよ」ってことだと思います。本音を語れることの価値、大事なことはむしろそっちのほうにある。

結果的に、そのほうが等身大になれるし、承認欲求みたいなものに惑わされずにも済むはずです。

ーーー

最近、漠然と語っていてうまく言語化もまだできていない「コミュニティ時代の編集者」に関する話も、まさにここにつながるなあと思っています。

この「経済合理性」や「政治的正しさ」を一度すべて取っ払った、それこそ腰にさしている刀を置いて入る茶室みたいな価値がある。

その中には、ゲストとホストがいて、ホストとしてその茶室の中の人々をフラットにつなげられるひとが「コミュニティ時代の編集者」ということなんだろうなあと思います。

その足並みや型みたいなものを自然と揃えることができるのが、きっとコミュニティ時代の編集者。

パーソナル編集者・みずのさんがVoicyの中でおっしゃっていた「学校の先生のような存在」というのは、まさにそのとおりだなあと思います。

ーーー

このような空間を、きっと今、人々が求めている。そこに最後の楽園感が立ちあらわれているんだろうなあと思います。

もちろん、ここにまた経済合理性が絡んでくることは、よろしくない。またわかりやすくハックが始まってしまうから。

トークンエコノミーのむずかしさみたいなものもきっとここにあって、塩梅を間違うと、すぐに投機的な目的や、ハックに向かう、それを行うだけのインセンティブが生まれてしまう。

経済性だけでもダメで、文化だけでもダメ。でもここは必ず両立できる。

それを真剣に作り出していくことが、これからは大事になってくるんだろうなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。