昨日のブログでは、いまのXでは「当事者性」が最強の仮面になっているのではないか、という話を書きました。


本当に当事者であるかどうかよりも、当事者らしく見えること、リアルであることよりもリアリティがあること。

そしてそこから生まれた感情だけが、現実の社会に残っていく、そんなまさに嘘から出た「マコト」を僕らは一体どう扱えばいいのか、という問いを残して書き終えていました。

その続きとして、今日はもう一歩、その奥のほうへと踏み込んで書いてみたいなと思います。

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まず、冒頭でハッキリと明言しておきたいことは、ここで「だからXの偽装は、けしからん」とか「当事者に対して、もっと敬意を払いましょう」みたいな話に進んでしまうと、たぶん本当に大事なところは見えてこなくなる気がしています。

なぜなら、物語というものは、もともと「他人の声を借りるところ」から始まっているから。

「私はそれを経験していません」と前置きしながら、それでもその声を書き、その姿を演じ、その世界を描くというかたちで、ずっと続いてきた営みが、物語(フィクション)だと僕は思います。

つまり、他人の声を借りること自体が悪なのだとしたら、そもそも文学も演劇も映画も、フィクションを前提としたものは最初から成立しなくなってしまう。

今日はそんな単純な話ではなくて、もう少しだけ危うい方向へと踏み込んでみたいなと思うのです。

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で、そんなときふと思い出した本が、村上春樹さんと川上未映子さんの対談本『みみずくは黄昏に飛びたつ』です。

その中で、川上さんが村上さんに、こんな問いをぶつける場面があるのです。

「『男の作家の書く女性はファンタジーだ』とか『この作家は女の書き方がだめだ』という言い方がありますよね」と。村上さんはそういう性差にまつわる指摘をあまり気にせず、自由に女性を書いておられますが、それはどうしてですか、と。

それに対する村上さんの答えが、すごく印象的。

少し本書から、要約しつつご紹介してみたいと思います。

村上さんは「考えないな」と前置きしたうえで、こう続けます。「自分が普通の人で、向こう側に普通じゃない人がいるって思うから気になるわけで、自分がそのまま"そっち側の人"になっちゃえばいい」のだと。

そして、「ボヴァリー夫人は私だ」というフローベールの有名な言葉を引きながら、対談はそんな方向へと進んでいきます。

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この発言って、いまの時代の常識からすると、かなりギリギリのところに踏み込んでいる気がするんですよね。

というか、SNS的には完全にアウト。

アウトだからこそ、SNSでは毎回喧々諤々の村上春樹論争が起きるのだと思います。

言い換えると、いまは「正しく描く」「適切に表象する」「当事者を傷つけないように描く」というのが、創作における基本的なリテラシーになっています。

でも、村上さんは、その手前を完全に飛ばしている。

「だって、レズビアンの人がみんな同じ考え方をするわけはないじゃないですか。一口に作家と言っても、みんなそれぞれ違う文体を持っています。それと同じことじゃないのかな」と言いながら。

外側からその人を「正しく描く」のではなくて、自分の中の何かを通して、その人に「なってしまう」、自らがそっち側の人として書いてしまう。

そういうことが、小説を書くという行為の根っこにはあるんだ、と。

ここまで読んでいる人の中には、もう既に「それはかなり危うい発言だ」と見切りをつけてしまいそうなひとがいると思うのですが、

でも、僕は、ここに小説論として、というか、もっと広く物語論として、ものすごく大事なことが言われている気がしてならないのです。

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そして、この対談を読み進めていくと、もうひとつ、すごく印象的な話が出てきます。

村上さんは、自分の小説について語るときに「壁抜け」という言葉を何度も使っています。

リアリズム的な物語を進めながら、ある瞬間に登場人物が突然ふっと壁を抜けて、向こう側へ行ってしまう。

その「壁抜け」が、書き手にとっても、小説そのものにとっても、読者にとっても、ものすごく大事な要素なんだ、と。

そして対談の中で、こんな言葉が出てくるのです。

「優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない」

これは、書き手にとっての、ある種の作法の話として語られていました。

物語の中で、いちばん大事な瞬間、いちばん核心に近いところを、書き手はあえて説明しないほうがいい。叩かないほうがいい。

なぜなら、説明すればするほど、リズムが死んで、リアリティが死んでいくからだ、と。

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僕がここを読んでいて、ふと思ったことがありました。

いまX上で起きている「当事者語り」も、実はある意味では、まったく同じ技法を本能的に用いているじゃないか、ということです。

匿名で「当事者語り」を行う人たちは、自分が本当に何者なのかを説明しません。真に当事者であるかどうかは証明しない。

AIなのか本人なのか、どこまでが経験で、どこからが演出なのかも、はっきりさせない。

つまり、「一番大事な音を叩かない」ということを結果的にやっているわけです。

叩かないからこそ、読者は勝手に補ってしまう。自分の痛みや怒りや喪失や記憶を、その曖昧な部分に投影してしまう。

これは、よくよく考えてみると、物語のいちばん強い技法だけを剥き出しにして取り出したもの、と言えるのかもしれません。

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だから僕は最近、Xの匿名当事者語りを前にして「あれはダメだ」「文学的ではない」と単純には言いにくくなっています。

むしろ、ある意味では「文学的すぎる」とすら言えてしまう。

説明しすぎず、当事者性を匂わせ、読者の感情に直接届く。これって、ものすごく強い物語の技法そのものなわけですよね。

だからこそ、厄介なんだと思います。

「文学なんてもう誰も読まない時代だ」とよく言われますが、それはちょっと違っていて、たぶん「文学的な何か」だけは、いまも世の中じゅうにあふれている。むしろ氾濫している状態。

その大半が、本のかたちをしていないだけ、なのです。

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じゃあ、村上春樹さんの「壁抜け」と、Xの匿名当事者語りの「壁抜け」は、いったいどこが違うんだろうか。

ここを考えていくと、前回までの話と、少しずつつながってくる気がしています。

以前、このブログで養老孟司さんの「真っ赤なウソ」の話を書いたことがありました。

教会、劇場、マンガ、江戸の吉原。これらにはぜんぶ、「ここから先は真っ赤なウソですよ」という看板のようなものが、最初から立てかけられていた。

立派な看板や橋、大きな門がある。それらが「ここから向こうはフィクションです」ということを最初に保証してくれているから、人は安心して、その内側へ踏み込んでいけたわけです。

そして、向こう側で壁を抜けて、深いところに降りていって、ちゃんとこちら側へ戻ってくることができた。

橋というのは、向こう側に渡るためだけのものではなくて、同じくらい、こちら側に戻ってくるためのものでもあるんですよね。

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村上春樹さんが小説の中で「壁抜け」をするとき、その壁抜けは「これは小説です」という看板の内側で行われています。

読者は「これは小説です」という前提を共有したうえで、村上さんが用意した壁抜けに同行する。あちら側に降りていく。そこで、とんでもないものを見せられたりもする。

そして、本を閉じて、こちら側に戻ってくる。

戻ってきたとき、読者の中には、何か「総合的なリアリティ」のようなものが残っているはずで。

これが、橋のある場所で行われる「壁抜け」だと僕は思っています。

ところがX上の壁抜けは、その橋のないままに行われている。

「これはフィクションです」とは誰も言わなず、むしろ、「これは本当にあった話です」という顔をして流れてくる。

だから、壁抜けで生まれた感情は、こちら側にそのまま流れ込んでくる。

戻ってくる場所がないわけです。怒りも、悲しみも、義憤も、共感も、そのまま現実の感情として僕らの中に残ってしまうわけですよね。

X上で毎日起きている無数の小さな祭りは、結局のところ、この「行ったまま戻ってこない」状態が、感情のレベルで延々と続いているということなのかもしれません。

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ただ、ここで少し気をつけたいなと思うことがあります。

「だから壁抜けはやめましょう」「ちゃんと地に足をつけて、当事者だけが当事者の話をしましょう」というふうには、僕はぜんぜん思っていないのです。

ここも強く強調したいポイント。

村上春樹さんの対談本に、もうひとつ印象的なやりとりがあります。

ある小説で、主人公がかなり唐突な死に方をする、その描写について、川上さんが質問するくだりです。村上さんは以下のように答えるんですよね。

「あんなふうに調子良く、気持ち良く生きてきた人はあんなふうには死なないよ、と普通の人は思うじゃないですか。でも、死ぬんですよ、実際に」と。

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これが素晴らしいやり取りだなと僕は思うんですよね。

現代は、誰に突っ込まれても問題ないように、医学的に正しく、社会的に正しく、当事者に怒られないように、すべてのエビデンスがちゃんと積み上がるように、整合性が崩れないように、書こうとしてしまう。

でも、そういう「リアリズムへの(政治的)正しさへの恐れ」を抱えたまま書いていると、今度はリアリティのほうが先に死んでいってしまう。

これって、いまの時代の感覚に、ものすごく刺さる話だなあと思います。

僕らは今、何かを表現する時にファクトチェック、エビデンス、当事者性、説明責任など、すべて「叩いて確かめる」方向の言葉を用いたがる。

でも、物語が本当に深いところに届くときって、たぶんそうじゃない。むしろ、叩かないし確認もしないし、曖昧なまま、グラデーションのまま読者にくぐらせる。

そういう書き方ができなくなってしまうと、たぶん、いちばん大事な何かが僕らの手元から消えていってしまう。

逆に言えば、社会の側が、リアリズムの(政治的な)正しさに対してガチガチになってしまっている現状があるからこそ、今のXでは、そういう「当事者の語り」を装った偽造が一方で広く氾濫するんだろうなあと。

それが表の社会で許されないものになっているから、こそです。

これは現実の、昼の世界と、夜の世界の対局に近い。

昼の世界からは駆逐されたけれど、人間が生きるうえで否応なく求めてしまうものこそ、夜の世界において、より一層怪しく、魅惑的に提供されてしまいがちな現象と、非常によく似ている。

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で、ここまで考えてくると、僕の中で少しずつ見えてきたことがあります。

「善き物語」というのは、たぶん、お行儀の良い物語のことではないんだろうな、ということです。

善き物語というのは、むしろ、不謹慎で、危なくて、ときに残酷で説明不能なものを、ちゃんと含んでいる。

スキャンダルや罪や死、恥や暗部を、ちゃんとくぐらせている。

そういう、ちょっと向こう側に踏み込んでいく不謹慎さを、ちゃんと持っている。

でも同時に、それが「これは真っ赤なウソですよ」という橋のある場所で行われている。

だからこそ、読者を深く揺さぶった上で、ちゃんとこちら側へと戻してくれる。

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逆に言うと、「悪しき物語」というのは、その壁抜けを、橋のないままに、まったく別の目的のために使ってしまう物語のことなんだろうなと思います。

そして、その感情やエネルギーを、インプレッションや承認欲求、広告収益などの別のエネルギーへと転化していくためだけに用いてしまう。

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こう考えてくると、僕がいまWasei Salonでやろうとしていることの意味も、自分の中で、ようやくちゃんと言葉になりはじめてくる気がしています。

Wasei Salonは、ある意味で、「これは真っ赤なウソですよ」という橋があり、看板がちゃんと立っている場所なのかもしれません。

クローズドな空間だからこそ、ここで起きることは、ここで完結する、というゆるやかな合意のようなものがある。

ゆえに、メンバー同士が、属性に縛られずに、ふだんは口にできないような言葉も使い合える。

つまりWasei Salonは、外界と繋がる橋が消えていく時代に、もう一度、小さな橋を内側からかけ直してみよう、という、そんなささやかな試みなのかもしれません。

そういう場所をつくれていることができたらいいなあと、僕は割と本気で思っています。

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向こう側にちゃんと渡って、ちゃんとひとりひとりがそれぞれの壁を抜けて、ちゃんと深いところに降りて、それでも、しっかりとこちら側に戻ってこられる場所。

そんな場所を、これからも淡々とつくり続けていきたい。

結局、いつもとあまり変わらない結論になってしまったかもしれませんが、これまでにはないアプローチや角度から、またひとつ大切なことを言葉にすることができたような気がしています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。