最近Xを眺めていると、匿名アカウントによる、かなり当事者性の強い文章を見かけることがほんとうに増えたなと感じています。
ある年齢や、ある性別の、人生の後悔について、かなりあけすけに語っている文章が大量に出回っている。
たしかに、読んでいるとグサッとくるものがあります。
「ああ、こういうことってたしかにあるよな」と思わされるし、「これは当事者にしか書けない言葉だな」と感じることもあります。
ただ最近は、ふと別のことも思うようになりました。
これは本当に、本人、つまり「当事者」が書いているのだろうか、と。
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もちろん、実際のところは、僕にもわかりません。
個別のアカウントを名指しで「これは本物だ」「これは偽物だ」と断定したいわけでもまったくなくて、そんなことは外側から確かめようがないし、確かめてもあまり意味はないとも思っています。
ただ、いまのXを眺めていると、中身は別人でも成立してしまうような「当事者語り」が、明らかに増えてきている気がしています。
たとえば、40代女性の喪失感を語っているように見えて、実際には30代の男性が書いていると言われても、もうあまり驚かない。
まあそりゃあそうだろうなあって、感じるだけ。
他にも、地方で傷ついた若者の話を、都会に住む中年男性が書いていたとしても、逆に、裕福な中年男性の孤独を、若い女性が書いていたとしても、たぶん成立してしまう。
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そして、そこにAIの力が加われば、なおさらですよね。
文体や全体的な雰囲気、醸し出すオーラはもう、カンタンにつくれてしまいます。
痛みの文体も、喪失の文体も、AIはかなり自然につくれてしまう。もちろん、それに合わせたソレっぽいプロフィールも完ぺきにつくってくれる。
当然、AIには、実際の人生経験はありません。それでも、「傷ついているように見える文章」は書けてしまうし、「失った人間のように見える文章」も同様に書けてしまう。
「その立場をずっと生きてきた人間のように見える文章」が、もうかなりの精度で書けてしまう時代になってしまいました。
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だからこそ、僕が考えてみたいのは、いまXで起きているのは、単なる「匿名アカウントの嘘」とか「AI生成記事の増加」みたいな話ではないんじゃないか、ということです。
もう少し奥のほうで「当事者性そのもの」が、もっとも強いリアリティの形式になってしまっているんじゃないか、と。
今日の本題も、まさにここからです。
この点、いまの時代に、X上で、もっとも信頼されている語りとは何か。
それはたぶん「当事者の語り」なのだと思います。
「私はそれを経験しました、その痛みを知っています」「これは当事者としての実感なんです」そう言われてしまうと、読者は一気に惹き込まれてしまう。
当然、反論もしにくくなる。それは違うんじゃないか、と言おうものなら、「あなたにはこの痛みを体験していないから、わからないだけ」と返されてしまう。
だってあなたは性別が違うから、年代が違うから、と。
これは、Twitterが出てきて当事者の声を拾いやすくなり、なおかつそこから一気に幅を利かせたケア論の功罪であり、完全にその揺り戻しです。
だから当事者性は、語りとして、現代において、とても強い。
でも、強いものはかならず模倣されるものです。もっとも客観的に信頼されているものは、もっとも偽装されやすい。ルイ・ヴィトンのカバンがいちばん偽造品が多いように、です。
当事者であることが、いちばん強い説得力を持つ時代になったからこそ、今度は「当事者らしさ」のほうが演じられるようになってしまって、それがインプレッション稼ぎにまんまと使われてしまっているわけです。
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で、ここで大事なのは、本当に当事者である必要はない、ということだと思うのです。
読者が「この人は、当事者なんだ」とマジメに信じてくれさえすればいい。
たとえそれがウソや偽りだったとしても、それで裁判が行われるわけでもないし、Xに戸籍を提出するわけでもないし、職場や家庭や過去の証明を求められるわけでもない。
本当にその経験をしたのかどうか、読者はほとんど確かめません。
「この人は本当に経験していそうだ」と読者が感じたその瞬間に、当事者性はもうその時点で完ぺきに成立してしまう。
つまり、いまのXで求められているのは、「リアル」というよりも「リアリティ」のほうなのだろうなと思います。
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そう考えていくと、いまのXは、よく語られるように「巨大なリアリティショー」みたいなものなのかもしれないなあと。
ただ、テレビのリアリティショーと違うのは、出演者と脚本家と観客と批評家が、ぜんぶ同じ空間にいるということ。
誰が演者で、誰が脚本家で、誰が観客なのか、最後までよくわからない。
本当に本人なのか、AIがかなり手伝っているのか、そもそも最初から全部がフィクションなのか。
その境界がずっと曖昧なまま、僕らはみんなでそれを眺めている。なんならその曖昧さや、あわいこそを思いっきり楽しんでしまっている。
そして読んだ瞬間には怒ったり、深く共感したりもするのだけれど、多くの場合、次の日には完全に忘れている。
すごく嫌な言い方をすれば、誰かの人生らしきものを勝手に読んで、誰かの痛みらしきものに勝手に反応して、そしてまたすぐに次のポストを消費しに行く。
そこにはたしかにある種のショータイムがあるのだと思います。
虚実が入り混じることそのものを楽しむ、リアリティショーとしてのXです。
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ただ、こういう話は決して新しいわけでもないんだろうな、とも思っています。
別の性別、別の立場、別の人生をまとって語ることは、昔から日本の表現文化のなかにずっとあったことのような気もします。
たとえば、紀貫之の『土佐日記』は、男が女のふりをして書いた日記ですよね。
歌舞伎の女形なんかもそうです。
でもそれは、現実の女性のただの模倣ではなくて、むしろ「女性らしさ」というリアリティを抽出して、誇張して、観客の前に差し出すような芸でした。
蔦屋重三郎の時代も、たぶん同じだったのだろうと思います。
江戸の町人たちは、現実そのものを見たいというより、現実が少しだけ誇張され、編集され、虚実ないまぜになった娯楽こそを、目一杯楽しんでいた。
本物ではない。でも、本物よりも、なんだか余計に本物らしい。そういうリアリティに、日本人はずっと惹かれてきたのだと思います。
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だから、いまXで起きていることも、突然変異というよりは、日本の表現エンタメ文化がずっとやってきたことの最新版のようなものなのかもしれない。
そして現代において、何よりも特殊なことは、その人間らしさを、AIがいちばん見事に演じていることです。
AIは本当に意識があるわけではないし、本当にこちらを理解しているわけでもない。それでも、理解しているように見えるし、考えているようにも見える。
そう考えていくと、AIもまた、ある種のリアリティショーの最大の主役なんじゃないか、と思えてきます。
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ただし、昔と今で決定的に違うところもあると思っていて。
昔の文学や歌舞伎のような舞台、小説には「これは真っ赤なウソですよ」という前提が最初からありました。
観客は、これは虚構だとある程度は知っている。読者は、これは作り話だと知っている。だからこそ、安心して騙されることができたのだと思います。
「これは現実ではありません。でも、現実ではないからこそ、現実よりも深いところに届くかもしれません」そういうゆるやかな合意が、書き手と読み手のあいだにあった。
ところが、いまのXでの当事者語りは、そういう前提がほとんど共有されていません。
そこでは、「これはフィクションです」とは誰も言わない。むしろ、「これは本当にあった話です」という顔をして流れてくる。
ここが、いまの時代の現代的なところであり、同時に少し危ういところでもあるんだろうな、と思います。
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現代のいちばん本気のフィクションは、絶対に「これはフィクションです」とは名乗らない。
最初から嘘だとわかっている文学よりも、「これは本当にあった話です」という顔をしたポストのほうが、いまの読者にはずっと強く届き、響いてしまう。
「文学がつまらなくなった」と叫ばれる昨今ですが、文学がつまらなくなったわけではないのだと思います。
現実のフリをしたそんなフィクションのほうが、いつのまにかあまりにも文学的になりすぎてしまった、ということなんだと思います。
その虚実入り混じる感じ、そのあわいこそが、現代の至高のエンタメになりつつある。
逆に言えば、今ほど「文学的な何か」を日本国民全員で楽しんでいる文学全盛期の時代も、過去にはなかったとさえ言えると思うのです。
ただそれが昔のように「これは文学です」という注釈がついていないだけ。
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ただ、僕はこれを単純に悪いことだとは思っていません。
他人の声を借りることや、当事者ではない人間が、当事者のように語ることは、それ自体を全否定することはできないからです。
なぜなら、そこからしか生まれない芸術も一方でたしかに存在するから。
当事者本人には、近すぎて書けないことがある。痛すぎて、恥ずかしすぎて、あまりにも自分の人生そのものすぎて、言葉にならないことがある。
でも、他人だからこそ、すんなりと書けてしまう。他人ごとだから、余計にあけすけに書けてしまうわけですよね。
そういう領域はたしかにあって、そこには危険もあるけれど、同時に表現の可能性もあるんだろうな、と思います。
朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』なんて、まさにそんな意味で大変素晴らしい小説でした。
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だから問題は、もっと別のところで、その虚構性が共有されないまま、インプレッション経済の中で高速に読者たちに消費されていくこと、そのほうにあるのではないか、と。
誰かの真の痛みが、都合のよいエンタメになり、誰かの承認欲求のためのおもちゃとなり、誰かの広告収益になっていく。
そして、そこから生まれた感情だけが、現実の社会に残っていく。そのうち、そんな嘘から出た「マコト」こそが、現実の「リアル」になってしまう。
たぶんいま問われるべきなのは、そういう悪循環のほうなんだろうな、と思っています。
つまり、問われているのは、そのリアリティショーを捏造する側ではなく、消費する僕ら読者の消費スタイルのほうなのかもしれない。
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では、僕たちはこのリアリティショー全盛期の時代に、どう向き合っていけばいいのか。
他人の声を借りることは、どこからが芸術で、どこからが搾取になるのか。本来の「真っ赤なウソ」から、どんな「マコト」を生み出すことができるのか。
このあたりのことを、もう少し考えてみたいなと思っています。
長くなってしまったので、続きはまた次回あたりに書いてみたいと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となっていたら幸いです。
2026/06/08 14:10
現実のフリをした文学が、Xを支配している。当事者性という、最強の仮面。
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