ブログを書き続けていると、うまくまとまらなくて御蔵入りした下書きが、ドンドン溜まっていく。そんな現象は、誰もが体験したことがあるかと思います。

そして、これまでの僕にとって、それはただの失敗作でした。

自分でも何を書きたいのかよくわからないし、そうやって混乱してしまった瞬間に、もはや扱うこともできなくなって、自分の筆力のなさを嘆くばかり。

でも、たとえば今日公開された、Claudeの画期的な新しいモデルが出たタイミングで、ふと思い立って、その御蔵入りの下書きをひとつ投げてみたんです。

すると、御蔵入りさせようと諦めたときには、まったく想像もしていなかった新たな道が拓けてきた。

自分が「これはもう無理だ…」と諦めていたような文章が、未来のAIによって、ふいに息を吹き返すことってあるんだなあと感動しました。

つまり、一度書いたものは、完全には死なない。

未来の自分と、未来のAIがタッグを組んで、いつかそれを迎えに来てくれることがある。

今日はそんな話について少し自分の思うところを書いてみたいと思います。

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改めて、なぜ、御蔵入りした文章を捨ててしまうのは、もったいないのか。

それは、文章の価値が、それを書いた瞬間には確定しないからだと思います。

僕らはどうしても、いま読まれるもの、いま評価されるものに価値があると思ってしまいます。

でも、本当はそうじゃない。今回の体験でおもしろいなと思ったのは、下書きそのものは一文字も変わっていない、という点なんですよね。

変わったのは、読み手(AI)側です。もっというと、新しいAIを使って解読をしたあとの僕の視点。

つまり、御蔵入りという判断は、原稿の欠陥ではなく、その時点での受け取り手(僕)の限界によるものだったということです。

ここはとてつもなく大きな気付きでした。

逆に言えば、価値は、未来の読み手の解釈によって、あとからいくらでも立ち上がってくるということですからね。

未来のAIや、それを道具として使う自分、あとは未来の社会状況の変化などによって、かつては完全に未完成だった文章が突然、意味を持ち始めることがある。

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だとすると、御蔵入りの意味もここで一気に反転するなと思います。

これまで御蔵入りは、ただの失敗と受け止められる事が多かったけれど、でも本当はまだ価値が確定していないものを、未来に預けておく行為なのかもしれません。

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そしてここまで考えてくると、中国の鄧小平が語ったとされる尖閣諸島の「棚上げ論」をついつい思い出してしまいます。

「我々の世代には知恵が足りない、次の世代はきっと我々より賢くなるだろう」と鄧小平は語ったわけですよね。いま無理に決着をつける必要はない、と。

白黒をつけると壊れてしまうものを、いったん未来に預けてしまう。それは逃避ではなく、未来の知性を信じることでもある。あの棚上げ論、今で言うネガティブ・ケイパビリティ的な態度は、非常に正しかったのだと思います。

だから、今日の僕の1つ目の提案は、御蔵入りを恐れずにドンドン積極的に書いてみればいい。

いまは未完成でもいい、それらはいつか、思いもよらないかたちで日の目を浴びる、かもしれないわけだから。

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ただ、ここからが今日のもうひとつの本題でもあります。

もし、そうやって価値が未来の解釈によって立ち上がるのだとしたら、いまのこの2026年現在の段階において、無理にわかりやすくしすぎてしまうことは、逆に危険な行為なのではないか。

それも、今回の記事内で合わせて警鐘を鳴らしてみたいことのひとつです。

具体的に言えば、ほんとうは複雑なものを、その瞬間の読者に合わせて、削りすぎてしまうこと。わからないものを、わかったフリしてまとめてしまうこと。

そうすると、たしかにその場では読みやすくなります。でも、未来の読者が読み解く余地まで一緒に削ぎ落としてしまっているのかもしれない。

あえて挑発的に言ってしまえば、「下手にわかりやすくするな!それは将来、化けの皮が剥がされるぞ」ということです。

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AI以前の世の中では、わかりやすい文章のほうが圧倒的に強かった。

短く、明快で、結論がはっきりしている文章や、誰が悪いのか、何が原因なのか、何をすれば解決するのか、そう言い切る文章ほどSNS上では拡散されていきました。

いや、SNSに限らず、書店であっても、そうだったかもしれません。ソフトカバーや新書など、読みやすくてわかりやすい単純化された話が、好まれる傾向にあったのが昨今です。

でも、その「わかりやすさ」の中には、しばしば乱暴な断言や切断が含まれていたと思うんです。

たとえば、複数の原因をひとつにまとめてしまったり、複数の立場を善悪二元論にしてしまったり。

または、本来解決できない問題にもかかわらず、誰かひとりの責任に押し込めるような態度です。

そうやって、親切丁寧に解説をしていそうに見せながら、実はただ単に自分に都合の良いように我田引水しているという事例が非常に多かったように思います。

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この点、内田樹さんが過去に何度も「複雑な現実は複雑なまま扱い、焦って単純化しないことの大切さ」を書かれていました。


過度に単純化する「簡単な話」への偏愛が行き着く果てには、あらゆる問題を「悪の張本人」に押し込める陰謀論が待っている、と。

複雑なことは複雑なまま扱ったほうが、結果的には話が早いと。

ただ、ここで正直に告白すると、僕はこの話を、ずっと理想論だと思っていました。

たしかに、言っていることは圧倒的に正しい。

でも現実には、「複雑なものを、複雑なままに」と言っているあいだに、断定する人のほうが圧倒的に勝ってしまう。

正論ではあるけれど、現実社会においては非力で、どこか机上の空論すぎるのようにも見えていたのです。

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ところが、AIと人間が人機一体になって読む時代には、この前提そのものが変わるのかもしれないなと。

AIと共に読むことが当たり前の読者は、「この文章は何を単純化しているのか。何が切り落とされているのか。この結論に、都合のよすぎる前提はないか」と必ず訝しがりながら読む。

そのとき、親切丁寧そうに見えた文章のほうが、むしろ疑わしく見えてくる逆説があるわけです。

つまり、これまでの社会における信頼の偽装として機能してきた「わかりやすさ」の化けの皮が、剥がされはじめる。

オセロの盤面が一気にひっくり返るように、その評価軸が反転していくのかもしれません。

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これは抽象論ではなくて、いま僕自身の身に、実際に起きていることでもあります。

今年に入ってから、僕は松岡正剛さんの『千夜千冊』に毎日1本ずつ読むことに挑戦しています。

松岡正剛の文章は、決してわかりやすくはない。

知識の接続があまりにも速すぎて、連想の跳躍も非常に大きく、ひとつの本の話をしているはずなのに、気づけば歴史や宗教、芸能や編集工学への話へと一気に広がっていく。

だから僕は、これまでもこのブログを読みたいと思いながらも、ずっと避けてきました。無学な自分には、無理だと半ば諦めていた。

ところが、AIが横にいると、すんなりと読めるんです。

話の背景を確認できるし、どんな補助線を引けば読めるのかを、一緒に探ることができる。

そうすると「難解だから読めない」と思っていたものが、「難解だけれど、読めるもの」に少しずつ変わっていく。

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ここで大事なことは、AIは難解なものを簡単にするためだけの道具ではない、ということです。難解なものを、難解なまま読めるようにするための道具でもある。

松岡正剛の文章が薄められるわけでも、ファストフード化されるわけでもありません。むしろ、その複雑さを複雑なまま、著者と共に味わえるようになる。

そしてそのとき味わっているのは、わかりやすさの快適さではなくて「なるほど、そういうことだったのか!」という知的体験であり、知的興奮のほうなんですよね。

無学な自分であっても、ちゃんと松岡正剛の骨太な主張を理解できたかもしれないと思えるその喜び。

現代を生きる読み手というのは、本当の腹の底ではそこに飢えているのだと思います。

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このように、これから進化するのは書き手だけではないんです。

むしろ、AIによって読み手のほうがドンドンと進化する。これが、今起きている最大の革命的な出来事。

これまでは、書き手のほうだけが進化するしかなかった。難解な哲学に対して『寝ながら学べる構造主義』を書いてくれるような内田樹さんのような存在を読者は待つほかなかった。

でも、AIを横に置いた読み手は、昔なら読めなかった文章も読めるようになる。

だとすれば、書き手は読者を低く見積もりすぎないほうがいいと僕は思います。

読者のいまの読解力だけに合わせて、複雑さを削りすぎないほうがいい。

読者を低く見積もるから、下手にわかりやすくしすぎてしまう。読者の未来を信じるからこそ、複雑なものを、複雑なまま残しておける。

つまり、冒頭の挑発は、読者を突き放せという意味ではなくて、読者の(未来の)読解力を心から信じろ、という話なんです。

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この点、東畑開人さんが、ちょうど今日、ネガティブ・ケイパビリティについてこんなことを書かれていました。

「破壊的なものを破壊的なままで、かつその破壊によって実際に破壊されないように保全しながら収納しておける」のが深い自由であり、それを俗にネガティブ・ケイパビリティと呼ぶのだろう、と。

これはそのまま、書くことにも当てはまる気がしています。うまくまとまらない下書き、結論の出ない思考なんかを、いまこの瞬間に無理に処理しようとはしない。

複雑なものを複雑なまま、保全しながら、ただただ収納しておくだけ。

ネガティブ・ケイパビリティとは本来、そういう未来に祈りを託すような行為だったのかもしれません。

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もちろん、AIは使い方を間違えれば、最強の単純化装置になります。

でも、AIの本当の可能性は、そこではないと思うんです。難解な文章を、難解なまま読むための補助線を引いてくれるような存在。

AIを、人間の知性を浅くするために使うのか。それとも、人間が複雑さに耐えるために使うのか。ここにこそ、大きな分岐点があるのだと思います。

そういう意味で、最近配信されていたオードリー・タンさんと、東浩紀さんのパネル・ディスカッションの動画は、ほんとうに素晴らしいAIの使い方がなされていたので、ぜひ実際に観てみて欲しいなと思います。



これこそまさに、AIという道具を正しく用いて、お互いの間に橋を架けるという行為そのものだったなあと思います。

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最後に今日の主張をまとめてみると、うまくまとまらない下書きは、その瞬間に捨てなくていい。

いまの自分には扱えないもの、両者の合意形成が不可能そうに思えるもの、そんな「深い自由」の片鱗はそのまま収納しておいて、未来に託していい。

未来の自分と、未来のAIが、いつかそれを迎えに来てくれることもあるわけだから。

だからこそ、御蔵入りを恐れずに、ドンドン果敢に挑戦して書けばいい。複雑なものを、複雑なまま扱おうとする勇気を持っていいんだろうなと僕は思っています。

いつかその複雑さを大切にしておいて良かったと、心の底から思える日が来ると信じて、です。2026年6月現在の僕はそんなことを考えています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにも、何かしらの参考となっていたら幸いです。