昨夜、Wasei Salonの中で開催された対話会イベントの中で「公人」と「私人」の話になりました。

具体的には、ひとりの人間における公人と私人の隔たりにおけるその振る舞い方や、受け止め方の問題について。

たとえば、何かを発言するうえで「それは公的な立場として語っているのか、それともあくまで個人の意見として述べているだけなのか」というような論点です。

誰もが知るところだと内閣総理大臣の靖国参拝問題のような話でもある。

そして、これはそのまま、僕ら一般人の日常の中における「本音と建前」の使い分けをどうするか?という問題にもつながるかと思います。

先日放送されていた「100分de名著」リチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』の回の中でも似たようなことが語られていました。

あの番組の中では、「バザールとアジト」の例として解説されていましたが、それぞれの社会的な立場と、一個人としての正直な意見や感情は、必ずどこかでバッティングしてしまう。

このバッティングや矛盾みたいなものに現代人は常に苦しめられていて、ここにきっと大きな落とし穴の正体も存在する。今日はそんなお話になります。

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では、その落とし穴とは一体何なのか?

この点、本来は本音や建前のようなものがあるのは当然で、それぞれの場によって引き出される考え方が異なるのも当然なんですよね。

最近、流行りの「分人主義」なんかも、まさにそれを僕らに強く教えてくれている。

分人主義は、中心に「本当の私」なんてものは存在しない、あくまでその場その場で引き出される私が網の目状に広がっていて、その総体が私であるだけに過ぎないと語ります。

そして、この説に同意するひとは世の中に多数存在しているはずなのに、それでも同時に、他者に対しては「中心の私」や「それぞれの分人を統合している上位概念の確固たる私」というものが存在すると仮定してしまう。

それを相手の「本性」であると見立てて、責任を追及したくなる人たちが、あとを絶たないわけです。

具体的には、異なる文脈における「分人」としての発言を、どこからか掘り返してきて、そのひとの私的な立場での発言や振る舞いを社会的な立場(公人)として断定し、それを「不適切だ!」と騒ぎ立てる。

これは空間的な移動だけでなく、時間的な移動においてもそうです。何年も前の「公的な場」での発言は、その時代における公の話にもかかわらず、現在の公の場の基準やものさしをあてがって断罪する。

それを皮肉っぽく描いたのが『不適切にもほどがある!!』というドラマだったんだと思います。

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で、若い人たちは、そうやって断罪されることを最初から恐れて嫌だなと感じるから、インターネット上で匿名や複アカや使い分けることも当たり前となっている。

でも本来は、匿名性や複アカのように場面ごとに振る舞いを変えるのが「人間」そのものであるはずです。むしろそれが自然。

ただ、インターネット登場以降、特に動画や音声が簡単に切り貼りできるようになった現代においては、この場面ごとの発言を意図的に切り取って、メディアが恣意的に用いて、明らかに悪意を持った形において用いられてしまう。

それを一般人までもが好き勝手にコンテキストや文脈全く無視して、あたかもそれが本人の「本性」があると思いこんでしまうような形で、炎上させることがテクニック的にいくらでも可能となったわけです。

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僕は、このように「一つに本性に統合されていなければならない」という強迫観念を、これ以上社会的に強化しても意味がないと思います。

もちろん、社会における責任概念を問うためにはある程度は必ず必要です。そんなものは全く必要ないと言ってしまったら、約束や契約がまったく成立しなくなりますからね。

「それは昨日の分人の私が契約したことであって、今の分人の私には関係ない」と言い張ることは許されない。

それだと社会が成立しないから、責任の主体を”意図的に”創造したわけです。

つまりそれはフィクションであって、このフィクションをちゃんと社会を成立させるためのフィクションであると正しく認識すること。

でも、フィクションが人間の本質だと誤解しているひとがあまりに多い。本来は、分人的な感覚のほうが実態に近くて、私がそうなのであれば、相手においても同様である可能性は高いはずです。

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この点「100分de名著」の番組の中でも、人間には「自己創造の欲求」と「人間の連帯の欲求」のふたつが同時に存在していると語られていました。

もちろん、自己創造のほうが本音であり、人間の連帯のほうが建前、になります。

そもそも、これらふたつは相容れない。そして本来は統一する必要もないもの。

ただ、両者を求めると必ずどこかのタイミングで矛盾する。その前提を今一度ちゃんとちゃんと理解したほうがいいなと。

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これは、哲学者カントの「アンチノミー」の話にもよく似ているなあと感じます。

カントは、理性には2つの関心ごとがあると主張しました。それは「完全性を求めること」と「真理を追求すること」の2つです。

この2つを用いて、たとえば「宇宙に始まりはあるのか?」を理性で考えていくと、無限説と有限説、そのどちらでも語られてしまうという罠がある。

つまり、二律背反で理性が自己矛盾に陥ることを示したのが、カントの主張なわけですが、まさにその話とも非常によく似ている。

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だから矛盾していても、当然です。

でもそれを見つけて、あたかも鬼の首を取ったかのようにして、あげつらうのが現代社会。

ある程度は一貫性をもって、一方である程度は矛盾もはらんだ存在として、それを受け入れてくれる「場所」が、いま本当に大事だなあと思います。

現代は、少しでも個人の主張が変わってしまうと、すぐに批判されてしまいます。

だからソレに怯えて、余計に自分の意見を変えられない。建前の意見を自己としてガチガチに固めてしまう。そうすると余計にストレスが掛かって本音の感情が爆発する。そこにカメラやボイレコがトラップのように潜んでいる。

みんなそのような社会的な抹殺が怖いから、なおさら自分が主張した意見にしがみついて、結果としてドンドン議論が先鋭化してく。

そして、繰り返しになりますが、若者はそれを避けるための複アカ・匿名という解決策にも出るわけです。

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そのような複アカや匿名は、回避策としては常に理にかなった正しい処世術かもしれないけれど、しかし、それこそがまさに、余計に「生きづらい社会」を助長し、強化してしまっているんじゃないかとも思います。

言い換えると、より誤った方向、真実や実態とは異なる方向性へと、人々の認識を強化することにつながっていると僕は思うんですよね。

つまり、「個人というものは一貫してなければならないんだ。実名顔出しの自分こそが中央管理室の本性のようなものであって、こっちはサブ。そこには明確にヒエラルキーが存在していますよ」と自ら宣言しているようなものだから。

結果として、何かミスしても匿名の自分を捨て去ってエスケープしてしまえばいい。そうすれば簡単に水に流すことはできると若い人たちは思っている。

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たしかに、そうすることで世の中のゴタゴタや、面倒くさいしがらみには巻き込まれないで済むかもしれない。

でも、そんな真実とはかけ離れた状態を是認して、人間の「他者を罰したい」という欲望に支配された社会、そんな生きづらい社会を本当に次世代に対して残そうとするんですか?と僕は思います。

子どもたちに向かって「匿名・複アカで賢く生きなさいね、それが正しい世渡りの道よ」って教育するんですか、と。

言い換えると、そんなリベラルやポリコレ一辺倒の社会を残して一体どうなるの?と真剣に思うんです。

もちろん真逆に振って、いついかなるときも「本音だけで生きろ」が正しいわけでもありません。そこはくれぐれも誤解しないでいただきたい。

そっちはそっちで「人間の連帯」が完全に失われてしまう。

本音だけを貫いて、どれだけ成功したとしてもいつか世間に潰されるだけです。ライブドア事件なんかがそうだったように。世の中の既得権益や検察のような組織に潰される。

残念ながら、日本というのはそのような社会であり、それはそれである意味では正しい挙動だと僕は思います。社会の自浄作用のようなもの。

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でもだからこそ僕は、個人の矛盾を受け入れていく、そんな社会を次世代に残していきたい。

以前、哲学者の東浩紀さんが、とあるインタビューの中で「変わらない一貫した意見を持ち続けるよりも、『自分は多少変わったっていいんだ』と思える、そんなある種の心理的安定性を保つ場、クッションとなるような場が人には必ず必要になってくる。」と語っていたんですが、これは本当にそうだなあと思います。

僕はそんな意味でも矛盾を許容する「アジール」のような場をつくりたい。

人々がいま無意識に「コミュニティ」のような場所を求めているのも、まさにそのクッション的な作用を強く求めていることが一つの大きな要因だと思う。

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そして「アジール」での体験があるから、個人の名前で発信される矛盾に対しても、そのブレをある程度許容できるようになるはずですし、自分も許容してもらえると思うからこそ、ちゃんと信頼や責任をそこに醸成しようと努めるようになるはずなんです。

つまり逆説的ですが、信用してもらえるからこそ、その信用を裏切らないようにしようと一貫性を見出すように自ら行動するわけですよね。

本来はこの順序が正しいはずで、いま本当に重要な視点だなと思います。

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このように考えてくると、山本五十六のあの有名な名言「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、褒めてやらねば人は動かじ。」からはじまる一連の言葉は、けだし名言だなあと思わされます。

そして、今日のような一連の話が、リチャード・ローティの語る「リベラル・アイロニスト」としてのスタンスなんかにも通じるのだと思っています。


ものすごくわかりにくい話をしてしまって申し訳ないと思いつつ、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。