「NFTを長期保有を促すための施策として、座禅か、SBTか?」というテーマについて、このブログ内でも改めて考えてみたいと思います。
Voicyで聴いてみたいよ、という方は以下のリンクから聴いてみてください。(10分間で語りきれなかった部分があるので、ブログのほうがより詳しく書いてあります)
この点、僕は、NFTの文脈において「ガチホすること=座禅」なのかどうかということは、禅をしっかりと自ら実践し、自分の身体感覚としてその効果効能をはっきりと理解できているわけではないので、判断を留保したいとは思います。
ただ、「座る」という意味、その一点においては、まさに「座禅」的だなあと思っています。
今日は、以下でその理由について、詳しく丁寧に説明してみたいと思います。
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まず、この話は大きな視点から眺めたほうが理解しやすいと思うので、あえて抽象的な方向から書いてみたい。
「ガチホ=座禅」を推奨する側の意見というのはきっと、何よりもまず「人の思想」を信頼しているんだと思います。
一方で、SBTを推奨する側は、人よりも「仕組み」のほうをより強く信頼しているんだと思います。
これはもう少しわかりやすく言い換えると、人間の内側から自発的に制限してもらうのか、それとも人間の外側から外発的に制限されるのか、という違いになるかと思います。
そもそも論として、この両者の目指している世界観というのは、僕からすると、ほとんど同じで、ものすごく似ているように見えるんですよね。
具体的には、他者に分け与えたひとが最終的に一番むくわれるような世界観にしよう、ということです。
つまり、本当のギバーが最終的に一番恵まれるような世界観をつくり出したいのは、変わりない。
そして、この目指している世界観においては、僕も本当に同意です。
このような世界観がほんとうの意味で実現できるかもしれないということが、NFTの一番のイノベーションだといっても過言ではないでしょう。
具体的には、以前Voicy内でもお話したので「自由を謳歌できるからこそ、その自由を謳歌しないことに価値が生まれる時代」という配信回を聴いてみて欲しいです。
ちなみにフリッパー(投機目的で短期売買を繰り返すひと)は論外だと思っているので、ここでは一旦除外しておきます。
あくまで今日書いてみたいのは、「価格のつく転売自由なNFTでやるべきなのか?価格がつかない転売不可のSBTでやるべきなのか?」という議論についての私見です。
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この点、一番の肝は、人間の思想のほうをアップデートするか否かの違いだと思います。
座った後に、自ら立ち上がれる自由を残しておきながら「なぜ立っちゃいけないのか?」を考えてもらうのが、イケハヤさんやしゅうへいさんが携わるLLACの立場で、
最初から、立てる自由を完全に奪っておいて、みんなが必ず座る仕組みをつくるのがSBT形式を利用したほうが良いという方々の立場。
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この点、イケハヤさんやしゅうへいさんがやろうとしていることは、僕から見ると、ある種、人間側の可能性にかけていると。
そしてこれは、NFTが生まれたからこそできることであり、人間側の思想をアップデートしていこうとしているように見えるのです。
僕も、こちらを支持する立場です。
一方で、SBTを用いる方々の言い分としては、そもそも「投機対象になるのは嫌だよね!だから、最初から投機対象にならないように仕組みで解決してしまいましょう」という立場だと思います。
ゆえに、SBTで発行して、そもそも転売できない仕組みにしているのだと思います。
これは、一度座ったら立てなくするような状態。それは自由を奪っているというよりも、「絶対に座っていたほうがいいんだから!とにかく座って待ってて!」みたいな感じで、有無をいわさずに、最初から一定期間座らせるようなイメージです。
SBTを推奨する彼らも、長期保有したほうが全員がWin-Winになる世界観が見えている。
たとえば、キングコング西野さんが最近始められたSBT形式の寄付型のプロジェクトなんて非常にわかりやすい事例だと思います。
常に、人間の意志の弱さによって生まれてしまう不確実性は徹底的に排除し、仕組み側から解決しようとする、非常に西野さんらしい施策だなあと感じます。
そもそも人間は仕組みによってミスをしているだけなのだから、既に未来が見えているひとの主張を一旦信じてもらって、とりあえず黙って一定期間座っていてもらうことは、とても理に適っていると思います。
そうすると、一定期間経過後「なるほど、そういうことだったんですね!」となりますからね、必ず。
だから、あの寄付型のプロジェクトは、本当に素晴らしいプロジェクトだなあと思っています。
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じゃあ、なぜ、イケハヤさんやしゅうへいさんが仕掛けているLLACは、SBTをあえて使わずにいるのでしょうか。
具体的には「座るのも立つのも自由だよ、でもなんで座らないといけないんでしょうね?」とわざわざ面倒くさいことを問いかけてくるのか、です。
僕が思うのは、これはあくまで仕組み側の自由度は高いままに、人間側に呼びかける必要があるから、です。
その煩悩を自覚させるための手段として、LLACというNFTを用いるべきで。
そうすると、人間側は自らの意志で座りながら、常に考えざるを得なくなるじゃないですか。
そして、座っているうちに外界から非常に楽しそうな声も聞こえてくるから、外の様子がドンドン気になり始めてくる。いつどの瞬間に立ってもいいよと言われているから、もう立ったほうがいいのではないかとも思い始めます。
そんなふうに、自由度が高いと、必然的にその葛藤のなかに置かれてしまうのです。
ただ、その葛藤の中で、本当に自分の意志で最後まで座りきることができたときに、「なるほど、そういうことだったのですね!」と、本人が内発的な学びや発見として唯一無二のものを獲得できる機会が与えられる。
ここが一番重要で、非常に大きな違いです。
そのときは、もはや「禅の公案」のようにもはや外部からの答えなんて一切必要としない。「ソレ」というアイコンタクトだけで、師匠と弟子が同じ価値感を共有できる状態に置かれるわけです。
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少し話は逸れますが、この対比、それ自体がものすごく面白いと思います。
きっと、親鸞や日蓮、道元などが宗祖となり鎌倉仏教が勃興してきたタイミングも、きっとこんな感じだっったんだろうなあと。
目指している最終的な到達点が似ていたとしても、その目指し方は180度変わってしまうというような。
具体的には、「南無阿弥陀仏」なのか「南妙法蓮華経」なのか「只管打坐」なのか。
ただ歴史だけを勉強していると「どうしてそんなに分派する必要があるの?しかも元は仏教なのに、言っていることや推奨していることがバラバラじゃないか!」と思うのだけれども、いまweb3という新たなフロンティアが生まれてきて、何が正解になるかわからないタイミングにおいてはいくつもの宗派が生まれてくるのは、至極当然のことだよなあと思わされてしまいます。
だからこそ、僕はいまこのような状況を間近で見れていることに、ものすごくワクワクしてしまうのです。
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さて、話をもとに戻すと、この話がちょっとわかりにくいという方は、また「マシュマロ・テスト」に喩えてみるとわかりやすいかもしれません。
西野さんたちがやっているようなSBT形式は、被験者がマシュマロを食べてしまわないほうが絶対に良いと完全にわかっているから、透明な鍵付きの箱にマシュマロを入れて「これをずっと持っていてください」と手渡しているようなもの。
一方でイケハヤさんやしゅうへいさんたちは、マシュマロを、あえてそのまま裸でわたしているようなもの。
ただ、その裸で渡されたマシュマロを、本当に自分の意志で食べずに我慢できたときは「なるほど、そういうことだったのですね!」と本人が内発的な学びや発見として獲得できる機会が与えられる。
一方で透明な鍵付きの箱だと、同じくマシュマロを食べずに待っていられた状態だとしても、その両者には、全く異なる学びが立ちあらわれているということは、きっと誰もが理解してもらえるかと思います。
もっと俗っぽい表現をするとすれば、いつでも引き出せるようになっている普通預金の状態で持っているか、定期預金で持っているかの違いにも似ている。
長期投資の成功を、自分の意志で行っているのか、定期預金というそもそも引き出せない仕組みで実現するのかは、同じ結果でも全く違います。
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さて、ものすごく大事なことなので改めて強調しておきますが、このお話は、どっちが正解とかではありません。
じゃあ、なぜこの両方が将来的にはどちらも正解になる可能性のあるアプローチにも関わらず、イデオロギー論争のようになってしまうのでしょうか。
最後にその点だけ考えておきたいと思います。
それは各人の「公平性」の観点が全く異なるからだと思います。
入ってくるほうで制限しつつ、そのかわり仕組み側に自由度をもたせることが公平性だと思っているのが「座る」ことを奨励する、イケハヤさんやしゅうへいさんたちの考え方。
一方で、入ってくるひとは誰でもウェルカムで間口を目一杯広くとりつつ、そのかわり入ってきた人には、必ず一定のルールを守らざるを得ない状況を受け入れてもらうというのが、SBT派の考え方です。
で、日本人はずーっと、後者の仕組みでガチガチにルールで規制されることのほうに慣れきってきたんだと思います。
具体的には、お上の言うことに従って、お上が指導しない範囲では、どれだけ自由にやっても構わないのだと。
そしてお互いに、そのルールを逸脱しないように監視し合う。そのときに一番の自由を感じられるようになっている。
一方で「何も禁止はしないけれど、ひとりひとりが考えて行動してね、その行動指針はこれですから、あとは各自の責任でどうぞ!」と言われると、途端に自由度が狭められたと感じて、窮屈に感じてしまう。
本当はこのほうが、0〜10まですべてが圧倒的に個人の自由なはずなんですけどね。すべての行動を自分が意思決定しなければいけないから、辛い人には間違いなく辛い。
この公平性の観点の違いが、絶対にこの議論がなくならない理由です。「自由」の捉え方が180度まったく異なる。
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最後に、繰り返しますが、このどちらのアプローチも、NFTでしかできないことなんですよね。
NFTはブロックチェーンという技術で、「監視カメラ」のようなものが発明されたようなものなのだと思います。その行動の軌跡がちゃんと終えるようになった。
「泥棒に入られたくないなら、鍵閉めろよ」という言い分に対して「いや、そもそも鍵って必要なんですかね?盗みをはたらくのは個人の自由だけど、他人の家って本当に勝手に入って、何かものを盗んでも良いんですかね?」ということを、いざというときの監視カメラの証拠保全があることによって万人に問えるようになったわけです。
ひとりひとりに考えて欲しい、他人の家に入って、本当に好き勝手ものを盗んでもいいのか?と。
自らの中で、そんな倫理的な問いに真剣に向き合ってもらうもらうために鍵はあえて用いないといのは、非常に効果的な方法だと僕も思います。
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人間側の思想のアップデートを望むのか、怠惰な人間側の思想は一切変えずに、仕組み側のアップデートで世界を変えていくのか。
どっちも世の中のアップデートには必ずつながります。あとは自分がどちらを選びたいのか。
いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
2022/12/05 11:18