僕らは「多様性」というものを、無条件に良しとしてしまっています。
でも、そんなふうに多種多様な人々が集まれば集まるほど、信頼できるのは「合理的な論理」以外にありえなくなってくるジレンマって、間違いなくあるよなあと思います。
あともうひとつは、先日も書いた通り「お金」という単一のものさし。
お互いのコンテキストをまったく共有できないのだから、どんな「物語」を持ち出してみても「それはあなたの感想ですよね?」という話になってしまうわけですよね。
で、アメリカという国がまさにそうなんだと思います。
共通の価値観として語れるようなものが、データやそれに裏付けられた論証以外にありえなくなってきている世界全体の中で、その一歩先を行っているのがアメリカのように僕には見えます。
それがきっとアメリカが「人工国家」だと呼ばれるゆえんでもあって、ここにひとつの落とし穴があるはず。
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で、このようなことを考えるときに、最近よく思い出すのが『やがて哀しき外国語』という村上春樹さんのエッセイ集に書かれていたアメリカ論になります。
村上春樹さんは、アメリカ人とフェミニズムや労働観にまつわる議論などを散々現地で行ったあと、最終的に以下のような結論にたどり着きます。
以下は本書からの引用となります。少し長いですが、大事な部分だと思うので、そのままの引用です。
思うのだけれど、アメリカという国では「概念」というものが一度確立されると、それがどんどん大きく強くなっていって、理想主義的(and / or)、排他的になる傾向があるようだ。よく「自然が芸術を模倣する」と言われるが、ここでは「人間が概念を模倣する」ケースが多いみたいな気がする。この概念をイエス・ノオ、イエス・ノオでどこまでも熱心にシリアスに追求していくと、たとえば動物愛護を唱える人が食肉工場を襲撃して営業妨害したり、堕胎反対論者が堕胎手術をする医者を銃で撃ったりするような、まともな頭で考えるとちょっと信じられないようなファナティックなことがおこる。本人は至極真面目なんだろうけれど。
おそらく人種的にも宗教的にもいろんなオリジンの人が集まってできた国なので、共通概念というものが共通言語と同じような大きな価値を持っているからではないかと僕は想像する。それが樽をまとめる たがのような役割を果たしているのだろう。でも正直に言って、ときどき話していて退屈することがある。高校のときのホームルームでまじめな学級委員の女の子に「ムラカミくんの考え方はちょっとおかしいです」と追及されているような気分になる。そういうことを言われると、「しょーがねえだろう、生まれつきおかしいんだから。でもそういうお前の顔だって相当おかしいぜ」と開き直りたくなってくる。そんなこともちろん言わないけれど。
で、もちろんそんなこと言わないのが、大人のマナーです。
ちなみにこの本が出たのは1994年であって今から30年前。
当然、今の村上春樹さんだったらこういう書き方はしないと思いつつ、一方で大事な当時の気分をあらわしたエッセイだなあとも思う。
実際、そこからちょうど30年が経過した今、「みんなそう思っているよな!」と発破をかけたのが、トランプとイーロン・マスクが仕掛けた今回の大統領選だったってことだと思うんですよね。
概念で対立し合おうとすると、必ず生まれてきてしまうヘイトのような感情を本当に上手に用いてそれを逆手に取ったのが、イーロン・マスクのXを中心とした戦略だったのだと思います。
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唯一の頼みの綱であった宗教、具体的にはキリスト教も衰退してきてしまった近年のアメリカという国は、それを僕らにはっきりと教えてくれている。
とはいえ、いつか真理に到達できる進歩史観のようなものがあると思われていた時代においては、このように「人間が概念を模倣」して、バチバチに言い争って突き詰めていけばよかったのだと思います。
いつか相手を屈服させることで「真理」に到達できると思えるわけだから。でもそんなものはない、わけですよね。
僕らは、科学実証主義における行き詰まり感みたいなものを目の当たりにしているわけです。
それでも「考え抜くんだ、答えぬくんだ」という哲学的な観点もあるとは思いつつ、僕はそれもある種のフィクションだと思っていて。
むしろ、それを突き詰めるほど、どんどんとファナティックなきな臭い方向に向かってしまうと思うのです。
「それは、あなたがそれだけ頭が良いから辿り着ける結論でしょう」という話にもなる。実際、ものすごく哲学的な話になるわけですから。
つまり、現状のエリート批判なんかも、まさにこういうところにあると思うのです。にも関わらず、やっぱりそのようなズレに気付けないのが、これまたエリートの悪いクセだなと僕は思う。
「自分は考え抜けたんだから、他の人にもそれができるんだ」と無邪気に信じ込んでしまう態度。でもやっぱりそれができることは、とても恵まれた知的体力がある証。
大学のような象牙の塔の中だけで許される尖った価値観を、なんとか一般にも敷衍させようとするから「これだからエリートは」とも批判されるのではないでしょうか。
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そう考えると一般的には好意的に用いられる「是々非々で判断したい」というような話なんかも、実は結構怪しいのかもしれない。
全員が是々非々で判断するとなればどうなるのか、それを考えてみると、「概念」を突き詰めていくほかなくなってしまう。
科学のような分野だったらそれで白黒はっきりするかもしれないけれど、でも科学でさえも最近は解明しきれない。
「10のうち9を解明したら、また目の前に10の新しいわからないことが生まれてくる」というあの状態。
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で、ここで村上春樹だからというわけではないのだけれど、以前もご紹介したレイモンド・チャンドラーの「男は強くなければ生きてはいけない。しかし、優しくなければ生きていく資格がない」という言葉を、またここで思い出してしまいます。
あまりうまく言えないのですが、この一見すると矛盾するような話を矛盾だと捉えるわけではなく、同時に受け入れられる器としての役割が「人間」だと僕は思うのです。
そして、人間が「政治家」を行う意味もきっとここにある。やっぱり猫じゃダメなんですよね。もちろんAIでもダメで。どちらかの判断が、バグだとみなされてしまう。
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つまり「人への信頼を取り戻す」ってことなんだろうなあと思います。「あなたが言うなら、私は信頼します」そうやってお互いを健全に、信頼し合える環境を作り出すこと。
もちろん、そんなのは「ポピュリズムにつながるだけだ」という批判も間違いない。でも人という器の中にのみ、内包することができる矛盾や問いもある。
問い続けるという態度は、人間だけに行えること。
二項対立を超えて、矛盾する要素を同時に内包できる存在として人間を捉える観点は、現代の分断社会を考えるうえで、改めてとても大事な観点だなと感じます。
そうじゃないと、アメリカのように概念同士だけを戦わせて、いつまでも平行線を辿り、期日までに折り合わなければ、じゃあ戦争だって、なる。
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とはいえ、このあたりの話は落としどころが本当にむずかしいなあと思う。
正直、僕にもまったくわからないまま書いている。
ただ、今の世界の流れは、間違いなく「概念同士の争い」になってしまっているように僕には見える。
それは繰り返しになりますが、目先の多様性を認めようとしているからで、それゆえに、共通のものさしや物語が逆説的にドンドン減っていってしまっている状態です。
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一方で、先人たちは、そうじゃない価値基準をいくつもつくって、共にいられるようにしていた。
物語を共有し、神話や宗教もある程度は共有をした。それが意識的だったのかどうかはわからないけれど、先人たちは本当に鋭いし、頭がいいなあと思う。
でも常々書いている通り、僕らはもうそんな昔には後戻りはできない。
じゃあ、どうすればいいのか。
ひとつは、やはり境界線を極力あいまいにする「縁側」のような空間の創造だと思います。外でもあり内でもある、外でもなく内でもない、増やしていくこと。
ゲートの内と外という明確な概念、その境界線をくっきりと鮮やかに明確化していくのがアメリカだとすれば、極力そうしないのが、縁側の役割。
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どれだけ自分が考えている概念が正義だと確信をしていても「まあこの辺にしといたろ」という落とし所をつくったうえで、なあなあにできる力や、寛容さが本当に求められているなと思います。
お互いが、同程度に「不満足なまま」に終えていくという状況を意図的に作り出すこと。
そのときに多少不均衡であっても、お互いに譲り合い、長い時間軸の中で貸し借りを補填し合っていけるはずだと、相手を信頼し合えること。
そうやってお互いにずっと完全には満たされることがないまま、相手が存在していてもいいということにしないと、本当にやっかいなことが起きてくるように感じます。
相手を論理的に説得できて、結果的に殲滅できると考えること自体が、大きな間違いなのだと思っています。
そうじゃなくて、曖昧なままに、お互いがどうやったら共にいられるかを考えることのほうが今とても大事だと思っているんですよね。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。