トランプ再選が確定してから、世論の何が一番大きく変わったって「エリートに対してのヘイトを顕にしてもいいんだ」という流れです。この方向性に一気に変化したことは、かなり大きいなあと思っています。
日本でも、エリート層やエスタブリッシュメント(シルバー民主主義)に対するヘイトを叫んでもいいんだっていう雰囲気に、明らかになってきましたよね。
自分から進んでファーストペンギンにはなれなくても、自分より影響力のある存在がその方法で成功を収めれば、すぐにそれに追随しようとする日本人特有の「横並び主義」姿勢そのものだなあと感じます。
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もっと具体的に言うと、そのヘイトを表向きに利用しても良いんだと考えるような世論。
「情報の交差点」にいる人たち、インフルエンサーやメディア系のひとたちが、そのヘイトの力を利用し始めようとしているということだと思います。
そして、そのようなヘイトを眺める大衆側の目も、一気に変わったからなのだろうなあと思います。もうそのようなヘイトに対して、白い目で見なくなったというか、むしろそっちがマジョリティ側だと思うようになった。
従来の「事なかれ主義」を重視する空気から、対立を許容する空気への転換点とも言えるのかもしれません。
見事にオセロが一気にひっくり返っている感じがあります。
来年、アメリカのトランプ政権が発足し何かしらの形で失速するまでは、この流れは日本でも加速していくことは間違いなさそうです。
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で、こういうのを実際に目の当たりにしてみると、日本人は「一億総中流」でなければ社会にヘイトが蓄積されてそれが爆発してしまうということを、本能的に理解していたのではないかとさえ、思えてきます。
だからこそ、意識的にそのような社会を維持しようとしてきたのかもしれない。
日本が資本主義という建前のもと、実際には社会主義に近しい構造だったその理由というのは、そうしなければ、社会の分断と、それに伴うヘイトが制御不能になることを、日本人は経験的に知っていたのかもしれないと思うのです。
じゃあ、どうしてそうなってしまうのか。このあたりについて今日は考えてみたい。
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この点、僕はこれまで日本人の「空気」について何度も考察してきましたが、日本人は必ずしも強固な個人の倫理観や道徳観を持っているわけではありません。
むしろ、「空気を読む」ことに長けていることが、日本人の特徴です。
その「空気」自体が様変わりしたら、人々の行動も様変わりするのは、当然のことだということなんでしょうね。
これはたとえば、大震災のあとの行列なんかは、わかりやすい。
どんな状況下でもちゃんと列をつくり、提供する側も公平に分配している日本人の姿を観て、海外のひとたちはそれを「クレイジージャパン」だと呼ぶわけです。
それがクレイジーだと思われている理由は、その前提にある価値観として、彼ら外国人、特に一神教の人々にとっては、自分と神の間の行動指針に従うことであって、世間の空気に従うことでは決してないからですよね。
あの危機的な状況下のなかであっても行列をつくる姿を見て「日本人、めっちゃ倫理観高いやん、自分の欲望に溺れずに、神との約束ちゃんと守っているやん」と思うはずなんです。
でも、日本人からすると「それの一体何が驚くことなの?」と思うことでもある。
日本人からすると、世間の空気に従うことが第一法則だからですよね。
自分の欲望なんかを最優先して、村八分にされることが一番恐れていること。
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でも、ここに来て、その「世間の空気」自体がガラッと変わってきているということだと思うのです。
エリートやエスタブリッシュメントに対するヘイトを表明することが、許容されるようになってきた。
さらには、善意で運営されているサービスをハックすることさえ、正当化される風潮なんかも生まれてきています。
なぜなら、それはエリートがつくっているものだから。あっちが利用するなら、こっちも利用するというような状況が生まれつつある。
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この点、僕はずっとそんな「ハック思考の危うさ」みたいなものを、このブログの中で主張してきたつもりです。でも、いまいち理解されにくい話だなあと感じていました。
ずっと僕の中の問題意識にあったのは、そのハック思考のもとに大衆が行動をし始めたら、一体何が起きるのか、それは容易に想像がつくよね、ということ。
頭が良い人がハックする分には構わないのかもしれない。それはわかったうえでやっているんだろうと思うから、自己責任です。
でも、それを広く喧伝して、それによって大衆を釣っていると、空気だけで行動している人間が賢いふりをして同様のハックをし始める。
そうすると社会は一体どうなるのか。このあたりに来てやっと徐々に、そのヤバさが伝わりはじめてきたような気がしています。
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で、このような状況に陥ってくると、今度はお互いに対して、しっかりと敬意と配慮と親切心でまわるコミュニティを、ただ作り出すだけでも、価値が生まれてくる。その価値が日に日に増してきているなあと思います。
それは、富裕層のためのわかりやすいゲーテッド・コミュニティみたいなものともまた異なる。
そのゲート内がどれだけ治安が良かったとしても、その空間の中にはお金がないと入れないし、結局は、お金によって成立している仮初の空間になってしまう。
本当に相手に対して尊敬の念を持っているわけではなく、立場的な問題でそうやってお互いに、かしづいているだけになる。心の中では、互いに品定めし合って、互いに見下しているような状況。
お金がなくなれば、否応なしに排除される空間でもあるし、人種や価値観も大きく偏ってしまう。それだと分断は、さらに広まってしまうばかりです。
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そうじゃなくて、それぞれの自発的な敬意と配慮と親切心、そして礼儀によってまわるコミュニティのほうが大切だなあと僕は思っています。
しかも、それを「空気」を読んで実行するロボットのような人間の集まりで実現するのではなく、自分自身で考えた結果として「本当にそれが大事だ」と思っているひとたち、ひとりひとり丁寧に集まってもらうこと。
ただし、そのときに自分の意見が、明確に定まっている必要なんてまったくないとも思っています。
わからないことをわからないままにしておけるその胆力のほうが大事。
このあたりが、僕が他のコミュニティ運営者と明確に異なる部分でもあります。
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なぜなら、そうやって私の意見を無理矢理にでも明確にした瞬間に、共にいられなくなってしまうから。
そもそも、そうやって、自分の意見を明確に表明すること自体も、非常にむずかしい。
一方で、問い続けることを諦めないひとが集まっていることのほうが、大事だなと思うのです。それが昨日も書いた「人間の信頼を取り戻す」ということの意味でもある。
相手にも同様の葛藤があるということを、しっかりと理解し合える関係性のほうが結果的に共にいられると思うんですよね。
たとえ、ときに不意に足を踏まれてしまっても、そこに悪意があると邪推し合わない関係のほうが大切。
だから、「私の意見」や「考え抜いた答え」にたどり着く必要なんて、まったくないはずなんです。
それよりもお互いの敬意と配慮と親切心、そして礼儀があれば、居心地の良いコミュニティや共同体は自然と立ち上げっていくと僕は信じています。
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これまでの日本という社会に浸ってきた人間からすれば、そこで立ち上がる空間は、ものすごく「普通」の話ではあるのだけれど、もはやそのような普通の空間、和を成す空間も、なくなりつつある昨今です。
そうやって気持ちよくコミュニケーションがとれて、ちゃんと善意でまわっていく空間を復興することが急務だなあと思います。
そんな小さくても健全なコミュニティが、いくつも同時多発的に生まてくることが、きっと巡り巡って、この社会をボトムアップ的により良くしていくことにも繋がっていくはずです。
まさに中間共同体の復興。そのときに、Wasei Salonは、ひとつのあり方を真摯に現実のものとして提示できるコミュニティでありたいなあと思っています。
この場に集まってくださっているみなさんが、常にそのような態度でWasei Salonに関わってくださっているからこそ、今も明確にそれが実現している。本当にありがたいことだなあと思っています。心から、感謝しています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/11/16 21:03