こうやって毎日のようにブログを書いて発信をしていると、いろいろな人がいろいろな形で「話を聞かせて欲しい」とやってきてくれます。
ただ、そのときに最初から相手の「欲望相関性」の中に位置づけられてしまっているなあと思うことも結構ある。
ちなみにここで言う欲望相関性とは、哲学者・苫野一徳さんがよくVoicyの中でおっしゃっている「欲望相関性の原理」の話です。
簡単に説明すると、ひとはそれぞれに自らの欲望があって、その欲望に合わせて目の前にあるものの意味や存在価値を決めつけてしまう、と。
目の前に水の入ったペットボトルがあれば、のどが渇いている人には飲料水に、火事が起きていれば消火水に、退屈なひとにはそれがおもちゃになると。
それと同様に、たとえば相手が「自分はこうありたい」と思っているとき、その理想に合う都合の良いことを僕が言っているように見えているらしい。
そして、「だから話を聞かせてほしい」と近づいてくる。そんな形で接せられると思っている以上に辛いものがあります。
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で、人と人とのコミュニケーションは、そんな状況に陥ることを理解している人たちは、最初から人々の欲望にあった「商品」にして、上手に提供しようとする。
つまり自分が言いたいことよりも、相手の欲望相関性に合わせた内容のものを提供しようとするんですよね。そこに第一義的な目的を置く。
それは、相手の欲望がどこに存在しているのかを見極め、自らがキャラクター化して振る舞うようなあり方です。たとえば、プロレスやアイドルみたいな話もここにつながる。
もちろん、その行為自体を否定するつもりはありません。
でも、それを続けていると、どこか虚しさを感じてしまうのも事実だと思うんですよね。
次第に相手がただの、換金マシーンや自らの影響力を高めるための養分しか見えなくなってくる。目の前のひとが、その人である必要がまったくなくなってしまう。
だから僕は、そのような「商品づくり」はせずに、自らの欲望相関性に忠実に、そして誠実に書き続けたいなあと思っています。
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で、ときどき、そんな欲望相関性からできるだけ離れようと努力してくれる人たちがいる。100人にひとり、いや、1000人に一人ぐらいの割合で。
それができるのは、自分自身が欲望相関性の構造に絡め取られていることを十分に理解しているからなんだと思います。
たとえば、おのじさん。
おのじさんとは、今年も何度もVoicyの中で対話させてもらいましたが、おのじさんはその対話のときに、リスナーさんに見えていないのがもったいないなあと思うぐらいに、いつもスケッチブックに何枚もメモを用意して、徹底的に準備をしてきてくれる。
それは、おのじさん自身が見たい世界を押し付けるものではなく、僕が見ている世界をなんとか必死で理解しようと努めてくれた試行錯誤の証なんですよね。
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きっと、おのじさんご自身が一番恐れていることは、自分の欲望相関性の中に相手を位置づけてしまうこと。
それよりも、僕が本当に書きたいと思っているメッセージの方に、向き合おうとしてくれている。
だから、冒頭で語ったような人たちのように、自らの欲望相関性の中に勝手に位置づけて満足をしたりはしない。
そして、自分の解釈が間違っていたときほど、いつもとても驚きつつ、その真意を掴めたことのほうに喜びを感じている姿をみると、本当に稀有な人だなあと思わされます。
観たいように観てくれたほうが、一体どれだけ楽なんだろうと、僕自身も他者にインタビューする身になることが多いから思うけれど、その寄り添い方、相手の関心事に対して関心を寄せようという姿は、いつも本当にありがたいなあと思います。
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僕はそうやって、相手に対して、常に敬意がある人をついつい尊敬してしまいます。
どんな高貴な仕事でも、どんなに下賤な仕事でも、というか職業にはそもそも一切貴賤などはなくて、そのひとの向き合う姿勢で、すべてが決まると思うんですよね。
相手の関心事に関心を寄せようと努力をしているひと。そして努力家であり勉強家であり、さらにそこに少しでも向上心があれば、これ以上素晴らしいことはないはずで。
その仕事が社会的に認められていようとも、そうじゃなかろうとも、人間としてとても大事な責務を果たしているなあと思うからこそ、僕はそれを言祝ぐことをしたいなあと、いつも思ってしまいます。
逆に言うと、どれだけこちらに対して好意を向けられていたとしても、それが相手の中にある欲望相関性の中に位置づけられた、キャラクタライズされた自分だった瞬間に、気持ちは一気に萎えてしまう。
だったら、まだわかりやすく憎まれたり嫌われたりしたほうが好都合だとさえ思ってしまいます。
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で、今年改めてわかってきたことは、とはいえ、ひとは必ず「欲望相関性の原理」によって相手を捉えてしまうということです。
社会的、一般的な枠組みやレッテルの中から自由であろうとすることは、そもそも不可能。
だって、それさえも「そうやってレッテルから自由になって眺めてみたい、人と誠実に向き合いたい」という欲望相関性の中にいるということになってしまうわけだから。
この構造のジレンマのようなものから僕らは逃れられない、それは間違いない。
「敬意を持ち寄り合うことで、人間同士が分かり合えるなんてことは嘘、騙し合いのゲームである」と開き直るのが、相手の欲望相関性に合わせた商品を提供しようとするひとたちの思考回路であり、ハック思考なのだと思います。
敬意ってどうしても、そうやってハック的に用いられてしまう。『人を動かす』的な形として。
もしくは、そのような仮初めの敬意の騙し合いに対して嫌気が差して、明確にNOをつきつけるニヒリズム、そのどちらか一方に偏りがち。
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でも本当は、この絶望の先にあるもの。
言い換えると、それぞれの欲望相関性の原理から決して逃れられないからこそ、最後に残るのは「敬意」だけなんだと、僕は思ったんですよね。
どこまでいっても、相手のことはわからない。そして、その相手に向き合って対峙している私自身の欲望相関性の中からも逃れられない。
そうなるともはや、相手とつながる回路は完全に絶たれてしまうわけです。
で、この絶望の奥にあるものと散々向き合った結果としての「敬意と配慮と親切心、そして礼儀」なんだってことに、今年になってやっと気づけた感じがします。
ある意味では、溺れる者は藁をも掴む、その「わら」の役割を果たしてくれるのは、敬意しかないのだと。
村上春樹の本を今年70冊以上読んでみて、改めて理解したことのひとつでもあります。
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で、僕はここにおけるカギというのは、きっと「物語」だと思うんですよね。
「点」や「データ」や「肩書」だけで見たら、どんだけつまらない平凡な人生だと思えても、時間軸を長く取って、線で見ると、どんなひとの人生も一気におもしろくなっていく。
漫画や映画なんかもそうですよね。そのおもしろさは、登場人物たちの物語を知ることによって感情移入をし、自分の中で相手が固有名をもつ唯一無二の存在になっていく。
昔、「嫌われ松子の一生」という映画もありましたが、まさにそんなイメージで主人公の人生、その紆余曲折、相手のルーツとシーンを知ることで、どんな相手に対しても興味関心を抱き、思想信条が違えども、少しは理解も示せるようになる。
つまり大事なことは、点ではなく、線で知る、そして、面で読むことなんだろうなあと。
ただ。ここにもまた落とし穴があって、キャラクターだ!物語だ!となると、リアリティ・ショーや、起承転結がハッキリしたドキュメンタリーチックになってしまいがち。
実際、現代はドンドンそういう演出が過剰なドキュメンタリーコンテンツが増えてきました。M-1とかはその代表例。
天国と地獄を意図的につくりだしてしまう。そのほうが物語が際立ち、より多くの人にわかりやすく受け入れられやすいからです。
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でも、そうじゃなくて、お互いが一緒にいる中で自然とドキュメンタリーになっていくみたいな形が、僕は理想的だなあと思う。
リアルタイムで進んでいく穏やかなじんわりとした、特に見どころがあるわけでもない「物語の共有」こそが、実は一番大事なんだろうなあと思うのです。
ここまで読んでくださった方々は、ぜひそれぞれの幼馴染の顔を思い浮かべて欲しい。
一番最初に思い浮かべた人は、点で見たそのひとの客観的なデータとか肩書とか、それだけを抜き出しても、一般的にはまったく興味を持たれるような存在ではないと思うのです。
でも、あなた自身がそのひとを唯一無二の幼馴染であると認めているのは、長い長い時間をかけて、お互いの良いところも悪いところも全部をひっくるめて眺めてきて、ときに本気で喧嘩もして、それでも諦めずにお互いの物語を共有してきたからだと思います。
「嫌なヤツ」であることも含めての、その相手の人生に対しての感情移入がそこで初めて可能となる。
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最近、僕は至るところで「あなた自身の悩みや葛藤を聞かせてくれ」って言ってる気がします。
これも、AIには決して語れないことだから。
人間が「人間」だからこそ、持ち合わせている有限性やエラーこそ、これからの僕らの本質のような気がします。
一方でわかりやすい解決策とか問題提起とかは、もうあまり価値を持たないはずなんですよね。
だとすれば、敬意と配慮と親切心を持ち寄って、お互いに脅かすことなく、とはいえ相手に迎合しすぎるわけでもなく、ただただ淡々とできるだけ長く、お互いが共にいられる環境を作り出す。
そうやって共にいられる空間が何より重要になると思うんです。そうすると、お互いがオーガニックなドキュメンタリーや物語を共有できるわけだから。
気づけばいつの間にか、幼馴染や自分の家族と同じように、相手が相手らしく成功して欲しいと願う存在となり、相手が悲しんだり苦しんだりするときには、共に苦しむ、そんな「共苦」する存在になっていくと思うんですよね。
そして気づけば、お互いに自然と相手の物語の中の重要な登場人物にもなっていく。
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たぶん、ここをつなげていくことが、これからは大事だと思っています。僕が来年以降にもやりたいこと、さらに本腰を入れていきたいなあと思うのは、まさにこのあたりです。
このときのキーパーソンがきっと「コミュニティ時代の編集者」ということなんでしょうね。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/12/24 21:12