町おこしの議論の際に必ず用いられる「お金を落としてもらう」という表現。

具体的には、「もっと富豪の目線に立って、一泊何十万とするような宿泊施設をつくって、日中のアクティビティにも数万円単位でお金を落としてもらえるようなものをつくりましょう」と。

とても大事な視点だと思います。

ただ、個人的には、この「お金を落とす」という表現にいつも大きな違和感があります。

そもそも「消費者と生産者(サービス提供者)の関係性」が今のローカルを衰退させる一番の原因になっているのではないかなと。

今日はそんなお話を少しだけこのブログにも書いてみたいと思います。

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この点、「お金を落とす」という表現を使っているひとたちが、一番理想としている姿って、『千と千尋の神隠し』における「カオナシと油屋(湯屋)」のような関係性だなあといつも思います。

とにかく暴飲暴食をしながら、豪遊してもらって、砂金さえばら撒いてもらえればそれでいい。

もちろん、カオナシというぐらいだから、その対象は誰でも構わない。

相手が身体的にもメンタル的にも不健康そうであっても全く構わないですし、自分たちのサービスがその不健康を助長していても、関係ない。

常に「顔のない他者」を想定しているから、国内外からやってくるそんな富裕層にもっともっとお金を落としてもらって帰ってもらいましょう、と。

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そのようにして、途方もない富豪から気持ちよくお金を落としてもらって、地域にお金が循環すれば、結果的に地域全体も潤って、一般的なひとがやってきてもみんなが楽しめるような空間がうまれる。だから、全員がWin-Winの関係性になるじゃないか、と。

とはいえ、その富豪の待遇の仕方が、油屋のカオナシに対するような歓待の仕方でいいんだっけ?とは本当によく思います。

もっと、顔のある人間と人間の関係性のほうが大切なのではないか。

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そもそも、なぜこのような「消費」でつながってはいけないと思うのかと言えば、それは、地域にやってきてくれたひとを一度「消費」によって承認してしまうと、相手の経済状態が変化して「消費」できなくなったら、もう二度と訪れてもらえなくなるからです。

前回訪れた際よりも落とせる金額が少なくなった時には、もう一度行こうとは決して思わないはず。

今、円高によって海外旅行がとんでもない金額になっていますが、このタイミングで円安のときに訪れたエリアにもう一度行こうと思うひとはかなり少数なはず。

また、これは経済的な理由だけでなく、たとえば飲酒習慣なんかでもそうだと思います。

お酒を飲まなくなると、単純に町に落とせる金額が3分の2ぐらいになる。それだけでなんだかすでに申し訳ない気持ちになるから、改めてその地域には行こうとは思わない。

もちろん現地のひとは「それでも構わないから来てください」と言ってくれることはわかりきっているのだけれども、前回を上回る楽しさを得られることはないだろうなあと感じてしまうから、再訪しようとは思わなくなる。

当然、もっと魅力的な消費空間が他のエリアで生まれてしまったら、そちらに流れてしまうでしょう。

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この点、僕らはそろそろ「富豪は消費して豪遊したがる生き物」というステレオタイプな思い込みから解き放たれたほうがいいんだと思います。

むしろ、もっと町の課題に目を向けてもらって、それを一緒に解決してもらったほうがいいのでは?と思ってしまいます。

現代の富豪は消費よりも、人助けをして「承認」されたいと思っている。(だからお金を配る富裕層も後をたたないのでしょう)

具体的に言えば、『葬送のフリーレン』の「勇者と地域のような関係性」といえばわかりやすいかもしれません。

ひとは、どんな時代においても誰かの勇者になりたがる生き物。特に、すでに経済的に成功してしまった富豪であればなおさらのことだと思います。

もう、豪遊するような消費の仕方にも飽きているだろうから、町の課題に出資してもらうほうがよっぽどお互いにとって健全だなと思います。

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だから、本人の銅像とまでは言わなくても、石碑を建てられるようなことやらせてあげるほうがいいのではないか。

日本全国に行くと、水路を整備したとか田畑を開墾したとか、とにかく明治〜昭和にかけてつくられた大きな石碑が至るところに建てられているけれど、これはまさに当時の尽力した人々の名前を彫るためにつくられたものです。

きっと、石碑を建てるようなことに携わった人々は、その地域を訪れるたびに「助かっています」と地域住民の方々から頭を下げられたはずなんです。

そうやって、地域を訪れるだけで、頭を下げられたり握手を求められたりすれば、きっと何度も何度も通いたくなるでしょう。本人だけではなく、孫の代まで敬われるようなことであれば、なおのこと。

結果として、代々通じてお金を落としてくれることにもつながる。そのほうが、一族全体が承認欲求で満たされていくのだろうなあと思います。

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完全に余談ではありますが、「石碑」でいま思い出したのは、小田原にある「江之浦測候所」という一風変わった空間です。


地域の町役場で「町おこし」に関わる役場職員の方々にとっては、きっと1ミリも共感できない世界がここには広がっています。

しかし、現代において自らにセンスがあると自負している富豪やアーティストの方々が、地域の自然の中でつくりたいのは、きっとこういう空間なのだと思います。

それを多くのひとに公開して、見てもらいたいと思っている。実際たくさんの人々がそれを見るためにこの空間を訪れています。

役場職員の方々は「えっ、これでいいの?」と思うかもしれないけれど、「いや、これがいいんだ」という答えが返ってくるはずです。

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「地域の恥」とまちの課題をひた隠しにして、町づくりにも一切手を出させないことがどこの地域においても当たりまえとなってしまっていますが、いま開放していくべきは、もっと「町づくり」のほうだと思います。

本当の富裕層が求めているのって、そんな地域住民の方々から心から尊敬してもらえるための「余白」のようなものだから。

「お金を落としてもらう」のではなく「お金をたててもらう」ためにはどうすればいいのか。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。