Voicyのパーソナリティでもある元日経新聞の記者だった後藤達也さんが、Twitterに「新規獲得」より「既存会員」という、非常に素晴らしい長文投稿をされていました。


後藤さんは、サブスクにおいては「新規会員」の獲得より「既存会員」に満足・信頼していただき、会員を続けていただくことの方がはるかに重要だ、と語ります。

サブスクで大事なのは、過剰にアピールすることではなく、普段提供するサービスがよくなることに真摯に打ち込み、「等身大」で評価・信頼してもらうことです、と。

これは本当にそのとおりだなあと思いますし、今とっても大事な視点だとも感じています。

気になる方は、ぜひ全文も合わせて読んでみていただきたい内容です。

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とはいえ、なかなかにこれがインターネット上のサブスク関連では実践されてこなかった不思議があるなあと。

特にインフルエンサーが仕掛けるサブスク系は、離脱率よりも新規獲得ばかりを追う傾向にあります。

これが、本当にずーっと不思議でした。

ただ、最近になって薄っすらと気づいてきたのは「集めるのが得意なひとだけがサブスクを初められる、その権利を得られるから」だとも思ったのですよね。

言い換えると、オンラインサロンや有料メルマガ、Voicyのプレミアムスポンサーなどなど、サブスク系のサービスを初められるひとは、一番最初にある程度の母数を集められるひとじゃなければいけない、それが1つ目のハードルなんです。

どれだけ、誠実な人であっても、最初の母数が集まらなければ始まらない。

となると、その母数を集められる人がサブスクを運営する人間となり、そういうひとは、文字通り「新規を集めることが得意な人」なのです。

だからこそ、大量に出て行かれても、その分、大量に集めようとしてしまう。どうせまた、新規獲得できるから大丈夫だろうと高を括ってしまうわけですよね。

そして実際に、彼らはそれをやり遂げられてしまう。つまり、集められてしまうわけです。

そして、しばらくして、全体的に飽きられてきたなあと思ったら、それを潰して、また少し横にズレて、新しいサブスクやそれに類似したものを始めて、また同じようにそこに人を集める。

その繰り返し。

集めることが得意な人は、何か一般人の欲望やコンプレックスを掻き立てれば、いくらでもひとは集まることをハッキリと理解しています。それを上手にハックできるから、彼ら彼女らは、インフルエンサーになりえているわけですよね。

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これは喩えるなら、学生時代のカップルで顔が良い男女が、あまり長続きせずに、すぐに別れてしまうことにも、非常によく似ているなあと。

モテる者同士で付き合うほど、気軽に別れてしまう。あれは一体なぜだったのか。

そのほうが、彼らの価値観からしたら費用対効果、つまり「コスパが高い行動だから」ですよね。

逆に、目の前のひとに対して親切や敬意、誠実さを尽くすぐらいだったら、新しい関係性をゼロから作り出したほうが、手っ取り早いと自然に思ってしまうのだと思います。

つまり、顔面が良すぎてしまうがゆえに、いつまでも真の「愛」にたどり着けないみたいな話にも非常に近い。

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サブスク界隈でも、ずっとそのようなことが行われてきたなあと思っています。

でも、だからこそ、その「顔面」や「人を惹きつける技」に溺れないことってことは、とっても大事なことだなあと思うのです。

これこそが、恋が愛に発展していかない理由にも、そのままダイレクトにつながっていると思うから。

そう考えると、ナチュラルに人を集めてしまえる才能があるというのは一見幸せそうに見えるのだけれども、意外と不幸なことなのかもしれないなあとも思います。

多くの人は「それさえあれば…」と必死で願い続けるのだけれども、それがあるからこそ辿り着けない境地みたいなものも間違いなくある。

それこそ、 いつまでたっても本当の「愛」のようなものは始まってはいかないというように。

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ここで、改めて哲学者・苫野一徳さんの定義を再びお借りすると、恋というのは「自己ロマンの投影とそれへの陶酔」です。

だから、ひとを集める方法って意外と単純で、不特定多数の「自己ロマン」を投影されることを良しとして、そんな相手にとって都合の良い真っ白なスクリーンになればいい。

スクリーンになるためには間違いなくコツがあって、そのときに自分自身を晒す必要なんてまったくないですからね。

だとすれば、より一層「親切・敬意・誠実さ」みたいなものを蔑ろにする理由も、本当によく分かる。

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一方、愛とは、苫野一徳さんの定義をお借りすると「合一感情と分離的尊重の弁証法」です。

なんだか小むずかしいことを言っているなあと感じるかと思うのですが、それほど難しくなくて、臨床心理学者・河合隼雄さんは、カウンセリングの極意は「冷たく抱き寄せ、暖かく突き放す。」だと語られていたそうですが、これってまさにそれをわかりやすく言い換えた言葉だなあと僕は思っています。

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この点、最近僕は、このコミュニティ運営をするにあたって、その態度や行動に対して、まったく逆の行動を行っている場合があるなあと、自分自身で感じるときが非常に多いです。

たぶん、普通にコミュニティ運営を学んだひとからすると、僕自身がやっていることは全く意味が分からないと思われているはずで。

喩えるなら、火をつけながら、同時に必死で火を消して回っている。

それは本当に意味がわからない行動なのだけれども、そうやって火をつけたり消したりをひたすらに繰り返すことがコミュニティ運営者の役割だとも思っているフシもどこかにあるんですよね。

言い換えると、決して、安易な熱狂だけを生まないこと。とはいえ、閑散もさせないこと。絶妙な塩梅をひたすら維持し続けるのが本当に大事だなあって。

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この相矛盾する行為が、まさに「合一感情と分離的尊重の弁証法」であって、愛に統合していこうとする意志や運動そのものなのだろうなと思ったのです。

それが「問い続ける」ということでもあるだろうなあと、割と本気で思っていたりもします。つまるところ、真の「愛」の形を実践する空間をつくり出したいと思っているんでしょうね。

熱狂(合一)と、消火(分離)は、同時に行って弁証法的に高めていかなければ、真の「愛」の空間は立ちあらわれてきてはくれないと心のどこかで思っているということなのだと思います。

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言葉にすると、ものすごく厄介なことのように思えるのですが、実際に行動に落とし込むと意外とシンプルなことだったりもする。

そしてそれって、一度でも実際に目の前の相手から施してもらえることさえできれば「なるほど、そういういことか!」って、直感的に理解できるような類い感覚でもあると思うのですよね。

先日お話した、先に体感してみてもらうことのほうが重要なタイプの感覚値だとも言えるのかなと。

そのうえで、自らもそれを実践する契機さえ得られれば、なお良し。体感してもらいながら、自らも他者に対してそれを実践してもらうとさらに学びが深まる。

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だからこそ、そんな豊かさがいつも循環しているような場所として、この空間をこれからも運営していきたいですし、常に体感と実践の両方ができる空間になっていることが理想的だなあと。

それは決して、ゼロサムゲームではなく、循環の中に入ってくれさえすれば全員がプラスなれることだと思うから。誰からも何も奪われない、その心地よさがしっかりと循環していく。

最初と最後の話がだいぶズレてしまいましたが、後藤さんの投稿からそんなことを考えました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。